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辻原 登 許されざる者 [日記(2011)]

許されざる者 上
 明治30年代の和歌山の森宮(新宮)を舞台に、大逆事件(幸徳事件)に連座し死刑となった大石誠之助、誠之助の甥で文化学院創立者・西村伊作、阪急電鉄創始者・小林一三、大谷探検隊を組織した大谷光瑞等をモデルに、森鴎外、田山花袋、幸徳秋水、ジャック・ロンドンなどの実在の人物を配し、多彩な人物が繰り広げる恋あり(日露)戦争ありの大河ドラマです。

 主人公のドクトル槇はアメリカ、インド留学の経験を持つ医師で、故郷の森宮で「赤ひげ」をやっています。これに、姪の千春、甥の建築家・勉を配し、女新聞記者左巴(さわ)君枝、森宮藩の元藩主の長男・永野忠庸とその夫人、おまけに「熊野革命五人団」なる怪しげな自称コミュニスト集団まで登場し、これを率いるアナキスト管野スガとおぼしき女性も登場します。印象深いのはネジ巻き屋と点灯屋。時計が珍しかった時代、時計屋が各家を訪れてネジを巻き時計のメインテナンスをしていたといいます、これがネジ巻屋。点灯屋は、夕方になるとガス燈を点け、早朝にこれを消して回るという職業です。事故防止に市電の前を走る職業があったくらいですから、ネジ巻き屋、点灯屋はあっても不思議ではないですね。 このふたりの視点が加わることで、物語に奥行きが出てきます。

 上巻前半は、どうなるんだろうと思うほど様々な人物が登場し勝手に動き回ります。一通り配役の紹介が済んでしまうとストーリーが動き出します。中心は、ドクトル槇と永野夫人の不倫、そして槙の姪・千春の恋。なんだ、と思わないでもないのですが、作家の意図は少し違うところにあります。ふたつのメロドラマを軸に、紀州の田舎町・森宮(新宮)に押し寄せる時代のうねりを描くことにあるのでしょう。

 このドクトル槇と永野夫人の恋は古風で何ともロマンティックです。新宮の勇壮な火祭り「お燈祭り」の夜、祭りの群衆の中で一指し指が触れ合うシーンは官能的です。姦通罪が存在した旧刑法下でのふたりに恋は、文字通り「許されざる者」の恋です。永野夫人が満州で負傷した夫の治療について、槇に手紙で問い合わせるくだりがあります。事務的に治療法を問い合わせる文面に槇は落胆しますが、この手紙が美しい草書で書かれている事実を発見し、槇は夫人の恋心を感じとります。ふたりがこうした関係に陥る以前の夫人の手紙は、楷書だったからです。忍ぶ恋、なんとまぁ奥ゆかしい挿話ではありませんか。

 このメロドラマに、押し寄せる時代のうねりのひとつが、日露戦争です。社会主義者で非戦論者の槇も、兵士の脚気治療のため赤十字の医師としてこの戦いに加わります。
 森鴎外と脚気の話しは始めて知りました。日露戦争で、戦死者88,000人のうち病死亡が3割を占め、特に脚気の克服が重要な課題だったようです。当時、第2軍・軍医部長であった鴎外は、脚気(ビタミンB1の欠乏)を細菌による病気であるとする説をとり、食事療法を採用せずいたずらに病死者を増やしたという批判があるそうです。「許されざる者」では、槇に脚気「栄養障害説」をとらせ、戦場で相まみえさせています。(知らないのは私だけで)有名なエピソードのようです。作中、槇は脚気治療薬を考案し「征露丸」に似せて服用させていますが、これも史実を踏まえた記載です。
 銃弾が飛び交い砲弾が炸裂する満州の戦場で、物語の登場人物達が接近し遭遇しますが、偶然と言うにはちょっと出来過ぎ。ある者は負傷し、ある者は戦死し、永野夫人の夫・忠庸は半身不随で帰還します。忠庸の帰還は、槇と夫人の恋に陰影を付け加えることとなります。

 もうひとつが大逆事件。現在では、幸徳秋水、大石誠之助の刑死は、管野スガ等が計画した天皇暗殺計画に巻き込まれた冤罪であることが知られています。大石誠之助が平民新聞に寄稿し幸徳秋水と交流をもっていたこと、新宮で開かれた秋水の談話会に参加していたことで暗殺計画への関与が疑われ、事件に連座、死刑となったようです。もうひとつの「許されざる者」の物語です。
 物語の槇もまた逮捕されます。槇が事件と無関係であることを証明するアリバイに、永野夫人の存在が深く関っています。夫人との密会を白日の下に晒すか、冤罪を受け入れるか槇は選択を迫られ、社会主義者弾圧事件も上手にメロドラマに仕立てられています。

 作家は、この非業に倒れた同郷(正確には、辻原は田辺の生まれ)の明治の社会主義者を、愛惜をこめて描いています。ラストで、心優しき仁者・ドクトル槇を刑死させずオレゴン大学へと旅立たせ、物語の上で未来を約束します。きっと、ドクトル槇はオレゴンで永野夫人と思いを遂げたのでしょう。辻原登による鎮魂の物語です。
 
余談です。
 永野夫人の夫、紀州藩主の末裔・永野忠庸です。永野忠庸は架空の人物ですが、幕末の紀州藩の藩主に水野忠央という人物がおり、安政の大獄で有名な井伊直弼の大老就任を実現し、紀伊藩主後の徳川家茂を擁立した立役者です。この一連の政治工作に、熊野三社の資金を注ぎ込んだという記述が、神坂次郎の「熊野まんだら街道」にあります。この資金というのが、吉宗の寄進した三千両を元手に熊野三社が金貸し業を営み、当時、日本有数の金融機関だったらしいのです。この辺りは、本書でもちらりと触れられていますが、なかなか楽しいです。

 槇が経営し千春がシェフを務める「太平洋食堂」も、啓蒙的意味で実際に大石誠之助が開いた西洋料理店で、店名も同じです。明治37年当時、斬新過ぎて1年で閉店したようです。
 
太平洋食堂.jpg 大石誠之助.jpg
 太平洋食堂             大石誠之助

タグ:読書
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