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半藤一利 日本のいちばん長い日 [日記(2013)]

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
 本書は、映画にもなった有名な本ですから題名だけは知っていましたが、大宅壮一のゴーストライターとして半藤センセイが書いた本だとは知りませんでした。文藝春秋の編集者時代(1965)の頃です。現在は「歴史探偵」を自称しておられますが、本書が「歴史探偵」の初仕事ですね。

 ポツダム宣言受諾の御前会議(1945年8月14日)から、徹底抗戦を主張する青年将校の叛乱を経て15日正午の玉音放送に至る24時間を描いたノンフィクションです。24時間を1時間毎の章立てとして、

14日正午~午後1時    “わが屍を越えてゆけ”          阿南陸相はいった
午後1時   ~ 2時  “斬る覚悟でなければ成功しない”   畑中少佐はいった
午前11寺 ~ 正午   “ただいまより重大な放送があります”  和田放送員はいった

 といった具合にドキュメンタリー・タッチで描きます。

 太平洋戦争の幕を引いたのは、鈴木貫太郎の終戦内閣です。鈴木はポツダム宣言受諾を天皇臨席の「御前会議」で決めます。御前会議は、8月9日と14日の2回開かれています。総理大臣として決断を昭和天皇に投げたようにも見えますが、鈴木は、かつて侍従長であった関係から、天皇は戦争を終わらせるためにポツダム宣言を受諾するという確信があったのではないかと思われます。
 天皇の発言を読むと、あの方はほんとうに善意のひとだなぁと思います。

 このさい、自分のできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから、とつぜんこのことを聞いたらさだめし動揺すると思うが、自分が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前にも立つ。ことに陸海軍将兵は非常に動揺するであろう。陸海軍大臣がもし必要だというのならば、自分はどこへでもて親しく説きさとしてもよい
 
 14日の御前会議での天皇の言葉です。御前会議を仕掛けた鈴木貫太郎と、意見の割れる会議を超法規的な「聖断」によってポツダム宣言受諾に至ります。
 そんなに国民思いの君主であるなら、もっと早く軍の独走を止めていただければよかったようにも思うのですが、この辺りが難しいところです。張作霖爆殺事件で、時の総理田中義一を叱責し、内閣は総辞職田中はそれがもとで病没しました。以降、天皇は政治に口を挟まなくなったようで、あの方は「分をわきまえる」ということをご存じだったのかもしれません。

 また、ポツダム宣言を受諾した後の天皇の存在(国体)に、不安を持って参内した阿南陸相に、天皇はこう言います。

阿南よ、もうよい
心配してくれるのは嬉しいが、もう心配しなくともよい。私には確証がある。

天皇は「国体護持」を確信していたわけです。「確証」というと、何か「証」を持っていたのでしょうか。こうでも言わないと、国体護持のためには一戦も辞さずという陸軍を納得しなかったのでしょう。これも天皇のやさしさかも知れません。

 77歳という高齢で首相を引き受けた鈴木貫太郎も面白い人物のようです。閣議では閣僚に存分に喋らせて自分の意見を言わず、紛糾して閣僚が疲れたところで自分の意見を述べて結論に誘導するというのが常套手段だったようです。
 この時の陸相・阿南惟幾という人も人物です。閣議では本土決戦を主張し、ポツダム宣言受諾と決まると「一死以テ大罪ヲ謝ス」と遺書を残し自刃して果てます。
 昭和の日本の指導者層は、現在と比べると人間の器が違うようです。

タグ:読書
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