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子母澤寛 新選組始末記 [日記(2013)]

新選組始末記―新選組三部作 (中公文庫)
  子母澤寛が、新聞記者時代にコツコツと調べたものを一冊にまとめたもので、処女作だそうです。巻末の尾崎秀樹の解説によると、子母澤寛は北海道石狩の出身で、祖父は上野・彰義隊の生き残り、敗走して五稜郭で戦い北海道に住むようになったとのこと。幼い頃祖父に引き取られて成長し、そのことが子母澤寛の小説に影響を及ぼしているということです。

 本書の強みは、当時存命であった新選組の関係者の証言に基づいていることです。本書は、昭和3年(1928年)の出版です。近藤勇が亡くなったのが1868年、新選組の生き残り、斎藤一、永倉新八が亡くなったのが1915年ですから、新選組がほんの昨日の出来事であった時代です。


 例えば、近藤勇について、

口の大きい眉の迫った顔付きではあるが、いつもにこにこしている上に、両頬へ大きな笑窪があくので、逢った感じは物優しいいいところがあった。(府中日野町 79歳 佐藤俊宣翁 談)

といったくだりを読むと、血の通った「近藤勇」が目の前に現れるような錯覚に陥ります。

 『新選組始末記』をはじめとするいわゆる「新選組もの」は、いずれも敗者の物語です。新政府の統べる首都東京で、幕府に殉じた賊軍の集団が何故伝説となり、いまだに小説、映画となって語り継がれるているのか、不思議と言えば不思議です。
 勝者によって都合良く書かれる「歴史」から言えば、敗者である新選組は負の存在です。幕府の警察として薩長の勤皇浪士を殺しまくった新選組は、新政府にとっては悪であり「賊」です。下総流山で捕まった近藤の首は、京都まで運ばれて晒しものとされています。新政府が新選組を裁くに、もっとも適した土地が京都だったわけです。

 明治、大正という時代は、富国強兵、デモクラシーなどの進歩を謳歌する時代であるとともに、薩長が「勤王攘夷」の掛け声とともに天皇を担いで徳川と江戸を乗っ取った成り上がりが支配する時代です。公方様のお膝元、300年の徳川体制で栄えた江戸(東京)市民は、付け焼き刃でがさつなこの新時代を冷ややかに見ていたのではないかと思います。漱石も荷風も、精神的風土は江戸です。国家体制は近代に移行しても、市民の暮らしや人間関係は江戸時代を引きずっていたものと思われます。
 こうした市民の心性にぴったり寄り添うような懐古と反骨が、新選組であり白虎隊だったのではないかと思います。

 心情として、上野山で敗れ、会津で破れ、五稜郭で敗れた人々にとって、落日の徳川体制を最後まで支えた新選組こそ反体制のヒーローだったわけです。そこには、日本古来の「散華」や「判官贔屓」があり、新時代に対する不満、旧体制への回帰もあるのでしょう。
 これは、関東から起こった源氏によって亡ぼされた平氏に対する畿内の人々の心性と同じものかと思われます。勝者である源氏の物語ではなく平家の物語が書かれ語られ、各地に平家落人伝説が生まれた背景には、次のステージへ突入してゆく時代と、遅れながら時代に付いて行く他ない庶民とのギャップがあるのではないかと思われます。

 彰義隊、五稜郭の生き残りを祖父に持つ子母澤寛は、いわば遅れてやってきた江戸市民として、新選組の事跡を掘り起こし、『新選組始末記』にまとめたのでしょう。正史は勝者によって書かれ、敗者は物語を書くということです。
 『新選組始末記』は小説というよりノンフィクションに近く、『燃えよ剣』や『一刀斎夢録』を読むようにはいきません。 『新選組始末記』にあるのは、古老の語る「見てきたような」歴史の面白さです。

タグ:読書
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コメント 2

cocoa051

上野の寛永寺に行くと彰義隊の碑がありますが、とても無残な最期を遂げていますよね。
おなじ日本人なのに、という同情心が沸いてきます。
by cocoa051 (2013-11-14 08:17) 

べっちゃん

新選組も最初は地方区(関東)で、日本が均質化されるとともに全国区となたんでしょうね。新選組が小説、映画となるのは昭和初期ですから、この頃からでしょう。
京都の三条通りに「池田屋事件」の碑がありますが、新選組の顕彰碑というのあったかどうか?、一度壬生でも訪ねてみようかと思います。
by べっちゃん (2013-11-14 09:30) 

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