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映画 天井桟敷の人々(1946仏)(3) 劇中劇 [日記(2014)]

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 『犯罪大通り』『白い男』の続きです。

 主演のアルレッティは40半ばのオバサン、ジャン=ルイ・バローも二枚目とは言い難い。そんなふたりのすれ違いのメロドラマのどこが「映画史に燦然と輝く名作」なのか分かりませんが、3時間10分をそれほど長いとも思わず見てしまいます、3回見ました(笑。それは、『天井桟敷の人々』がまごうかたなき「メロドラマ」だからです。

メロドラマ:扇情的かつ情緒的風合いの濃厚な、悲劇に似たドラマの形式。悲劇と違い、登場人物の行動から人生や人間性について深く考えさせるというよりは、衝撃的な展開を次々に提示することで観客の情緒に直接訴えかけることを目的とする。(wikipedia)

【古着屋】
 『天井桟敷の人々』には、映画のテーマを象徴する劇中劇がいろいろ出てきます。女神をめぐるピエロとギター弾き、ルメートルの演じる「オセロ」は分かりやすいですが、ガランスが見に行ったフュナンビュール座の「古着屋」にどんな意味が隠されているのでしょう。
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 舞踏会の催されている邸に、ピエロのバチストが馬車にタダ乗りして到着します。ピエロは舞踏会場に入ろうとしますが、門番につまみ出されます。ピエロは、自分の服装(白い男)が舞踏会に相応しくないと考えるわけです。舞踏会には行きたいがこの服ではどうしようもない、でも行きたい、と身悶えするその時、「古着屋」が現れます。ピエロは、古着屋から衣裳を買いますが払う金がありません。ピエロは古着屋を刺し殺して古着を奪い、舞台から消えます。5分にも足りない?劇中劇です。

 これを観客席から見ていたガランスは、バチストのあんな恐ろしい眼は今まで見たことがないとつぶやき、傍らのフレデリックは、入魂の演技だと讃えます。ガランスがバチストを愛そうが、彼がありきたりの俳優であれば嫉妬しない、名優だから嫉妬するのだと言います。これは、ガランスがモントレーと暮らそうが気にしない、堕落していないから嫉妬するんだ、と言ったラスネールのセリフと呼応しています。
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ガランスがきているよ               ガランスの手相を見る古着屋
 
 この「古着屋」がハネた後、古着屋ジェリコは楽屋を訪れ、フュナンビュール座はオレのことを無断で劇に仕立てた、毎晩々々オレを舞台で殺していると難癖をつけます。ジェリコは、ガランスが見に来ていることを密かにナタリーに告げます。

 実は、古着屋ジェリコはこの映画のオープニングから登場し、時折現れてはストーリーをかき回し、ラストでバチストがガランスを追うシーンにも登場します。まるでバチストに憑いた貧乏神か死神のようです。そう考えると、劇中劇「古着屋」とは、バチストがこの憑=自分の宿命を葬って自由になる、という劇なのではないかと思います。それ故、あんな恐ろしい眼は見たことがないとガランスに言われるほど、バチストにとっては切実な問題だったのです。
 バチストは劇の中で古着屋を殺しますが、現実世界ではナタリーを棄てガランズに棄てられ宿命から逃れることができません。フレデリックもラスネールもモントレー伯爵も宿命から逃れられず嫉妬に狂います。ひょっとしたら、ラスネールはモントレー伯爵を刺し殺すことでこの宿命の連鎖を断ち切ろうとしたのかもしれません。殺害現場を立ち去ろうともせず、ニヤッと笑うあの笑いとは、そういう意味だったのかもしれません。

 古着屋ジェリコの登場シーンをみると、ジェリコが狂言回しであることが分かります。第1部で、フュナンビュール座の楽屋で、アンタの想いはバチスタに伝えるよとナタリーに言い、酒場「赤い咽喉」ではバチスタに、あんないい娘はいないとバチスタをけしかけ、ガランスの手相を見て遠くに旅に出る卦を立てモントレーとの行く末を予言します。ラストシーンのカーニバルにも登場して、ガランスを追いかけるバチスタに向かって、すべては終わった、と叫びます。
 この映画で、古着屋ジェリコと劇中劇『古着屋』は重要な意味を持っていると思われます。
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古着屋で幕が開き                 古着屋で幕が降りる
 
【作者と役者】
 フレデリックはフュナンビュール座を辞め、セリフのある劇団に移っています。フレデリック演じる劇中劇『アドレの宿屋』とその練習風景は面白いです。いろいろ検索してみると、フレデリックは実在の人物のようで、この『アドレの宿屋』を演じていたようです。この劇中劇の特徴は、フレデリック演じる人物が作者を徹底的に笑いものにするところです。脚本を勝手に書き換えて演じ、作者を舞台に引っ張り出し愚弄しますが、観客にはそれが大ウケにウケけます。映画のストーリには何の関係もありません。何故、この劇中劇が挟まれたのか?、フレデリックという存在を補完するということは考えられますが、脚本のジャック・プレヴェールによる俳優と脚本家のカリカチュアなんだと思われます。アルレッティにしろジャン=ルイ・バローにしろ、映画の製作過程においては、監督、脚本家の掌の上存在です。が、ひとたび映画が完成するや、俳優は監督、脚本家を超えて勝手に動きだす、そういうことなのかと考えたりします。それとも、ストーリーと何か密接に繋がる意味があるのでしょうか。

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客席に現れた俳優                 作者を舞台に引っ張りだす
 
監督:マルセル・カルネ
脚本:ジャック・プレヴェール
出演:アルレッティ ジャン=ルイ・バロー ピエール・ブラッスール マルセル・エラン ピエール・ルノワール

タグ:映画
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