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Kindleで読書 増田俊也 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(1) 高専柔道 [日記(2014)]

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
 『昭和史 七つの謎』に、東條英機暗殺計画に柔道家の牛島辰熊が関わり、その弟子・木村政彦が鉄砲玉として予定されていたという話が出てきます。東條は、サイパン陥落の責任をとって辞任しますから、暗殺は計画に終わっています。
 大宅賞を受賞した本書に登場するのがこの木村政彦らしいので、読んでみました。
 第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。文庫本で上下巻1200頁に及ぶ大著で、全編これ柔道という異色の本です。

 木村政彦とは、「木村の前に木村なく木村の後に木村なし」と言われた不世出の柔道家です。プロレスに転向した木村は、1954年12月22日、力道山と試合を行い(昭和の巌流島)、試合運びの約束(八百長)を破った力道山に敗れます。


プロレスはショーである。  ブック(プロレス界の隠語)と呼ばれる台本があって、そのブックに沿って試合は進められ、あらかじめ決められた勝者が勝つことになっている。

はじめの試合(昭和二十九年十二月二十二日)は引き分けにし、さらにもう一度引き分けを繰り返し、次に力道山が勝ち、そしてこちらが勝つということで合意したのです。

 力道山は、この約束を破り、反則技の右のパンチで木村をKOしてしまいます。木村は、力道山の八百長破りを怒り、周囲には「殺してやる」と言っていたそうです。つまり、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』という「殺す」とは、リングの上ではなく「リングの外」で殺すという意味だったのです。

 上記の「昭和の巌流島」を枕に、武徳会、高専柔道、講道館の流派を軸として、大正昭和の柔道界と木村政彦、その師牛島辰熊を描きます。

  柔道というと、嘉納治五郎の「講道館」や姿三四郎の投げ技(立ち技)を連想しますが、どうもこれは組織力と宣伝が上手かった講道館が政治的に生き残ったため起こった誤解ということのようです。 
 柔道は戦国時代の戦場の「組討」から始まるようで、相手を組み伏せて鎧通しなどの武器で相手を殺す武術です。殺人の剣術が「剣道」となったように、ソフィスティケイトされて柔「道」となったわけです。従って(というわけではないでしょうが)柔道では、組み伏せる「寝技(関節技、絞め技)」が立ち技以上に重要な位置を占めます。これは知りませんでした。
 
 戦前の柔道界には、弘道館柔道とともに、古式柔術の流れを汲む武徳会柔道、学生柔道の高専柔道という流れがあり、寝技を得意とする高専柔道の話が面白いです。
 
 「高専柔道」とは、旧制の高等学校、専門学校の柔道部を主体とした柔道(大会)です。試験で入学してくる高専の学生は殆どが白帯で、彼らを即戦力に仕立て上げ大会に勝ち抜くためには、練習量と寝技の新しい技の開発が一番手っ取り早かった、という背景があったようです。昭和12年の高専柔道大会において、拓大予科は横三角絞めを、同志社高商は立三角絞めを開発し、技と技がぶつかる試合を展開します。また、高専柔道は15人の勝ち抜きの団体戦であり、選手の実力に応じて出場の順位を工夫するなど、チームプレーの要素が加わった柔道でした。
 この寝技を駆使した高専柔道に講道館柔道がかなわなかったといいうのですから、面白いです。講道館は、この関節技、絞め技を禁じ手として、立ち技から寝技に引っ張り込む「引き込み」を禁止する講道館ルールを作ってしまいます。このルールが現在の主流であり、弘道館は本来の武術としての柔道をねじ曲げた、というのが著者の主張でもあります。講道館柔道vs.高専柔道の構図が、後に「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という話につながります。

 牛島辰熊に見出された木村は、拓殖大学の予科で技を磨き、高専柔道で活躍することになります。1200頁の大著ですから、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」までは先が遠いです。
 
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

タグ:読書
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