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kindleで読書 増田俊也 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか (2)  東條英機暗殺計画 [日記(2014)]

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
 長編なので、なかなか力道山までたどり着きません。その前に「東條英機暗殺計画」があります。
 木村政彦の師である拓殖大学柔道師範・牛島辰熊です。牛島は、自身が明治神宮大会3連覇、天覧試合準優勝という柔道の大家ですが、法華経を信仰し、その柔道も「生の極限に死があり、死の極限に生がある」という、精神性の濃い柔道家だったようです。

 牛島は、「柔道ができないほど体力が衰えたとき、俺はどうやって人のために生きていけばいいのか」という先に国粋主義を見つけます。そして、柳条湖事件の関係者であった陸軍大尉・今田新太郎を通じて、石原莞爾、加藤完治(農本主義者、満蒙開拓の推進者) の知遇を得、憂国の志士となった牛島は、陸軍少尉・津野田知重とともに当時の首相・東條英機の暗殺を企てます(1944年)。このまま東條に権力を握らせておいては日本は滅びると考え、東條を暗殺して戦争を終わらせようとしたわけです。

 東條暗殺計画で使用する武器は青酸ガス爆弾。この爆弾を使うと、青酸ガスによって周囲50m四方の生物が死に、爆弾を投げた当の本人も死んでしまうという自爆テロです。この計画の実行犯が、牛島という説と木村だったという説があり、著者は取材から木村説を採っています。実行を木村に押し付けたのではなく、暗殺が成功すれば己もまた死刑になるという覚悟で、牛島は成功率の高い木村に実行させようとしたと著者は想像します。
 牛島は、自ら果たせなかった天覧試合優勝を木村に託し、自宅に引き取って拓大予科、拓大に通わせたのです。木村は、牛島にとっては秘蔵っ子です。その木村を死に赴かせようとしたわけですから、牛島の覚悟のほどがうかがえます。一方木村は、国のためという大義は全くなく、18歳の時から牛島の圧倒的な影響下に育った木村は牛島の言うがままだったと想像されます。

牛島辰熊には思想があった。 嘉納治五郎にも大山倍達にも思想があった。 しかし、何度も言うが、木村政彦にはそれがなかった。

 と著者はいとも簡単に切って棄てます。暗殺が決行される前に東條は辞職し、暗殺は未遂に終わって、牛島は逮捕され執行猶予付きの判決を受けます。以上が「東條英機暗殺計画」の顛末です。これだけですが、牛島の柔道(武道)で培った思想が憂国にまで昇華したわけですから、牛島という人間を語る上では欠かせない事件です。

 一方、「思想」と無縁の木村は、拓大を卒業すると陸軍二等兵として故郷熊本で兵役に就きます。絶対の師匠・牛島から自由になった木村の軍隊生活は放埒を極めたようで、

木村は大日本帝国に命を捧げようなどとは微塵も考えていなかったのだ。 何度も繰り返すように、師の牛島辰熊がこの戦争に大義を見出そうとしていたのに対し、木村には思想がなかった。

 熊本で除隊となり、敗戦となって柔道を取り上げられた木村は、ヤクザとの喧嘩に明け暮れ、闇屋となって戦後の混乱を自由奔放に生き抜きます。木村の様々な乱行を紹介したあと、著者はこう書きます、

私が、これら木村の悪童ぶりをあえてここで紹介したのは、プロレス側の活字が、あの昭和二十九年の力道山との昭和の巌流島決戦を、「真面目で柔道しか知らない木村に、人生の裏街道に通じた力道山が勝ったのだ」などとあちこちで書いているからだ。木村はけっして男としての迫力で力道山に負けてなどいない。それをここではっきりさせておく。
・・・紹介したエピソードはごく一部であり、関係者から「この程度なら書いてもいいです」と了承を得たもので、残りのほとんどのエピソードはあまりに凄まじく、活字にできないことばかりであることも付記しておく。

だそうで、本書で語られない木村のエピソードはどんなものだったのでしょう。
 ともかく、敗戦によってもたらされた空白の中で悪童・木村政彦が誕生します。
 
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

タグ:読書
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