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読書 浅田次郎 地下鉄に乗って [日記(2015)]

地下鉄に乗って (講談社文庫)
 映画を見て、浅田次郎はこんなもんではないだろうと、もうひとつ納得できなかったので原作を読んでみました。「原作を読んでみよう」と書いて、直ぐに原作が手に入るのですから便利な時代です。kindleです。

 (粗筋は当blogの映画の方を見て頂くとして)映画の最大の謎は、みち子です。
 この物語の主人公である信次がタイムスリップして父親の過去と巡り会い、関係を修復するという物語に、真次の不倫相手みち子の物語が絡みます。

 エピソードとエピソードを繋ぐのが東京の闇を走る地下鉄。地下鉄で、何処をどう走っているのか分からないまま水平移動して、ぽっかり口を開けた出口を出るとそこは目的の場所。二次元、三次元を走るだけではなく、四次元を走る地下鉄があってもいい。地下鉄の出口は、昭和39年の新中野、昭和21年の新宿かもしれない。人はそこで何を見、誰と出会うのか?。それがこの小説の着想です、たぶん。

 真次にとって父親は、妻を使って妾に手当てを渡すような暴君、金のために汚い仕事にも手を染める唾棄すべき人間だったのです。ところがタイムスリップによって、闇市で逞しく生きる父、ささやかな夢を置いて出征する父、開拓民を命がけで守る父というもうひとりの父を知り、父を許すわけです。
 これは当たり前の話で、誰だって無垢な時代はあるわけで、人は世間に揉まれて厚顔無恥な鎧を纏い、人生のスレッカラシになるわけです。実は、真次自身も身勝手な人間であり、佐吉の分身に他なりません。佐吉の遺産で妻子を捨て、みち子と一緒になることを彼女に持ちかけています。また、真次の母親は、みち子を訪ね真次をよろしく頼むと言っています。真次が頼んだわけでは無いのですが、これは妾に手当てを渡す佐吉の妻の姿に他なりません。

 そしてこの小沼佐吉を核に、真次とみち子の物語が交差します。
真次のタイムトラベルは、昭和39年、21年、20年、昭和初年と過去に遡り、その各々の時代に佐吉が登場しますが、みち子もまた登場しています。真次と佐吉の物語に、何故がみち子が登場するのか。その謎が終章で明らかにされます。
 真次とみち子は、佐吉を父とする腹違いの兄妹だったのです。それが、真次のタイムトラベルの時代にみち子が登場した理由です。真次のタイムトラベルの裏で、みち子と佐吉の物語が進行していたのです。

 真次はそれとは知らず妹と不倫関係を持ったことになります。真次は、昭和39年のバー・アムールでこの事実をみち子から知らされますが、みち子が何時知ったのかは明らかにされていません。
 みち子は、この事実から真次を救い出すため、昭和39年に自らを身ごもった母お時を抱いて石段を転げ落ち、流産させます。お時がみち子を産まなければ現在のみち子は存在せず、みち子は自分の存在しないもうひとつの歴史を作ろうとしたのです。

 『地下鉄に乗って』は、父と子の物語、男女の愛の物語に仮託された、人生を変える人間の意思の物語、寓話です。時間に逆らい自らの過去を変えるみち子の物語です。それが、愛する人のために自分を消し去るという悲劇の形をとって涙を誘うところが、浅田次郎の上手さです。
タグ:読書
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