SSブログ

司馬遼太郎 翔ぶが如く(7) [日記(2019)]

新装版 翔ぶが如く (7) (文春文庫) 新装版 翔ぶが如く (8) (文春文庫)
【高瀬の戦】
 薩軍は、熊本城に一隊を残し小倉を目指し、植木、木葉、高瀬で政府軍と遭遇します。特に高瀬の開戦は、植木、木葉が小競り合いだったのに比べ、薩軍の主力が初めて政府軍と激突します。

 27日、高瀬に進出した政府軍4000に対し、薩軍は2800を3軍に分け、正面を篠原国幹、別府晋介、北から菊池川を渡り桐野利秋、南から村田新八が迎え撃ちます。桐野、篠原、別府、村田と薩軍の中枢が参戦し、東上への一歩となるはずだった高瀬の開戦は、西南戦争を左右する戦闘だったと言えます。この重要な戦いで薩軍は敗北します。正面の篠原隊は弾切れを起こして退却し、そのため桐野も村田も退却します。

【田原坂の戦】
 高瀬で破れた薩軍は田原坂(村田新八大隊、別府晋介郷士隊)が、吉次越(篠原国幹大隊と熊本隊)、山鹿(桐野大隊)に保塁を築いて政府軍と対峙します。田原坂は、政府軍にとって大砲を引っ張って熊本城に入る唯一の道であり、薩軍、政府軍の生命線とも言うべきこの坂を巡って激闘がおこなわれます。田原坂は両側が谷となった尾根道で、薩軍はこの斜面に保塁を築き、政府軍は谷から攻め上るため不利となります。
 田原坂の戦闘は3月4日に始まり20日の薩軍の撤退で終わり、死者は3500にのぼります。局地に激しい銃撃戦が展開されたため、田原坂からは、敵味方の弾が空中で衝突した「行きあい弾」と言われる銃弾が発掘され、激闘がうかがわれます。銃弾の不足する薩軍は「斬りこみ隊」による白兵戦を展開します。示現流の叫喚のもと白刃で突撃してくる薩摩兵児の凄まじさに、鎮台兵は怯えたようです。

政府軍が大兵を投入して一塁を抜くと、死を決した薩軍が 搏撃 につぐ搏撃でもってこれを血しぶきの中で奪いかえし、奪うとすぐ塁の中の敵味方の死体をほうり出してこれに 拠った。そういう状況が各戦域で繰りかえされ、双方にとって戦局の前途など予測もつかぬありさまであった。

 田原坂の戦いでは、坂路を上から見おろすことができる横平山の争奪戦がもっとも激しく、政府軍は横平山を占領し山上から田原坂を砲撃し、これが勝敗を決定します。
田原坂.jpg
【抜刀隊】
 政府軍は、「斬りこみ隊」に対して100人余の警察官からなる「抜刀隊」で対抗します。警察官は、西郷が送り込んだ薩摩郷士を中心に、奥州諸藩出身者なかでも会津藩人が多く、いずれも戊辰戦争では賊軍の汚名を着せられた士族です。大警視・川路利良は、薩摩郷士の城下士への屈折した恨み、会津人が持つ薩人への怨恨を利用したわけです。川路の奸計?が奏功し、「抜刀隊」は多くが斬り死にするという凄まじさで田原坂の戦況を左右する活躍を見せます。従軍記者福地源一郎(桜痴)、犬養毅が抜刀隊の戦闘を観戦し、「会津士族の警察官は鬼のような勢いで薩塁にとびこんでゆき、「戊辰の 復讐、戊辰の復讐」と叫びつつ薩人を斬りたおし」と犬飼は書き送っています。抜刀隊の主力は薩摩郷士ですから、抜刀隊は薩摩人同士が相争うという西南戦争の本質を象徴しているようです。
 大警視・川路利良は、実に9,000の警察官を動員し自らも臨時の少将として出陣しています。川路のほか、政府軍には川村純義、黒田清隆、大山巌、野津鎮雄、高島鞆之助、伊東祐麿などの薩人が。政府要人から前線で刃を振るう兵士まで、薩摩士族が合い争ったことになります。

 余談ですが、浅田次郎『一刀斎夢録』で、新撰組の斎藤一が維新後警察官となり「抜刀隊」として西南戦争で戦います。この小説で西南戦争は、西郷と大久保が仕掛けた第二の維新ということになっています。西郷は、維新の新体制は戦いの焦土のなかから生まれると考えていました。西南戦争の後明治維新は第二期に入りますから、「第二の維新」と言えなくもないです。

 田原坂、吉次越,山鹿の戦いで薩軍は破れ、敗走が始まります。

タグ:読書
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。