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スパイ・ゾルゲを読む 尾崎秀実 年譜 [日記(2009)]

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尾崎秀実

南満州鉄道株式会社調査部嘱託
支那研究室主事
ソ連共産党中央委員会機密部員

1901年(明治34年)5月
 東京市芝区伊皿子町にて出生、第一高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科入学
1925年(大正14年)4月
 東京帝国大学法学部政治学科卒業、1年間大学院に学ぶ。新人会(共産党東大細胞)及び大森義太郎が指導する唯物論研究会に参加。
1926年(大正15年)
 5月、東京朝日新聞に記者として入社。日本労働組合評議会傘下の関東出版労働組合東京支部・朝日新聞オルグとして労働運動に従事
1927年(昭和2年)
 11月、大阪朝日新聞に転勤、三・一五事件(社会主義者、共産主義者への弾圧事件)に遭遇、共産党に近づくも入党していない、豊中で英子(兄の妻)と同棲
1928年(昭和3年)
 12月、大阪朝日新聞・特派員として上海派遣
 東亜同文書院・中西功(共産主義運動の活動家、ゾルゲ事件に連座)等を指導、中国共産党・王学分等と接触。
1930年(昭和5年)
 アグネス・スメドレーの紹介でゾルゲと知り合い、ゾルゲ・グループに参加。英子と結婚
1931年(昭和6年)
 中国共産党駐上海政治顧問団の一員となる
1932年(昭和7年)
 2月、大阪朝日新聞に転属、北京、天津に密航しゾルゲ、スメドレーと接触
1934年(昭和9年)
 5月、大阪朝日新聞社に宮城与德の訪問を受ける。奈良公園にてゾルゲと再開
 10月、東京朝日新聞に転属、政治部記者となる。
1935年(昭和10年)
 コミンテルンに正式登録される、党名はオットー
1936年(昭和11年)
 カリフォルニア・ヨセミテにて開催の太平洋問題調査会第6回会議に日本代表の一員として参加。西園寺公一の知遇を得、近衛文麿に接近。
1937年(昭和12年)
 1月、風見章(第1次近衛内閣書記官長、第2次近衛内閣司法大臣)を知り、後藤隆之助の主宰する昭和研究会に入る。 昭和研究会には、蝋山政道、三木清、東畑精一、風見章、牛場信彦、矢部貞治、笠信太郎等が名を連ねている。
1938年(昭和13年)
 7月、近衛内閣嘱託となり、中国問題などを担当。近衛のブレーンで構成される朝飯会(政策勉強会)のメンバーとなる。 平貞蔵、佐々弘雄、笠信太郎と昭和塾を創設
1939年(昭和14年)
 第1次近衛内閣の総辞職により内閣嘱託を離れ満鉄嘱託となる。橘撲(しらき)、細川嘉六等と支那研究室を主宰。
1940年(昭和15年)
 3月、支那抗戦力測定会議(於上海)に出席
1941年(昭和16年)
 9月、「新情勢の日本政治経済に及ぼす影響調査会議」に出席(於大連)
 10月、検挙
1944年(昭和19年)
 11月7日、巣鴨拘置所にて処刑

参照
現代史資料1 ゾルゲ事件(1)

(編集中)



タグ:ゾルゲ
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