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海音寺潮五郎 史伝 西郷隆盛 [日記(2011)]

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 私にとって、西郷隆盛はなかなかイメージし難いキャラクターです。「翔ぶが如く」などを読むと、川路利良や桐野利秋は(それが誤解であるにしろ)何となく分かったような気になり、内務省を作って辣腕を振るった稀代のリアリスト大久保利通も何とかイメージできます。ところが、西郷隆盛だけは茫洋として捉えどころがありません。司馬遼さんも、手こずったのではないかと思うのですが。

 薩摩人の海音寺潮五郎が郷土の英雄を書けば、私の様な下手な読み手にも西郷隆盛がイメージできるのではないかと、今度は「史伝 西郷隆盛」(絶版)を読んでみました。以前同じ著者の「西郷と大久保」も読んでみたのですが、月照と入水自殺した1858年から物語の幕が開き、薩長同盟、大政奉還、戊辰戦争など西郷が歴史の表舞台に登場した4年間は全く触れられず、征韓論に跳んで西郷下野で終わっていました。
 「史伝 西郷隆盛」は、「史伝」とあるように小説の形を取らず、肩の凝らないエッセイ風の西郷隆盛・伝です。
 前半の1/3は、西郷家の出自から始まって斉彬が薩摩藩主となり西郷を見いだすまでを、島津重豪の登場、調所笑左衛門の財政立て直し、近思録崩れ、高崎崩れ(由羅騒動)など西郷が登場する背景から説き起こし、分かり易いです。
 西郷にしても大久保にしても最初から天下国家があったわけではなく、「薩摩藩」の狭い世界であれこれ悩んでいて、斉彬に目を開かれて明治維新へ至った様です、なるほど。その斉彬に西洋を教えたのが島津重豪(しげひで)で、重豪の浪費で藩財政が傾き、洋学に懲りた重豪の子斉興は同じ蘭癖の斉彬に家督を譲りたくなかったとか、潮五郎センセイの巷談調の「史伝」は、よく分かります。wikipedeiaの記述もそうなってますが、出所はこの辺りかもしれません。

 斉彬の西郷撫育という英雄が英傑を育む風景は、壮観です。斉彬の紹介とはいえその交友を見ると、松永慶永、橋本左内、藤田東湖、近衛忠煕、梅田雲浜・・・。藩主あり家老あり一級の知識人から公家まで、禄47石の下級武士が普通会える相手ではありません。西郷の人格や思想というものも、こうした人物との接触のなかで成長していったのでしょう。

 西郷の斉彬への傾斜は尋常ではなく、斉彬の死を聞いて殉死しようとしたほどです。斉彬の死は、将軍継嗣問題で対立した井伊直弼を倒すべく、藩兵を擁して幕府に対するクーデター?を仕掛けようとしたその時に起きます。西郷は斉彬の指示で京都でクーデターの受け入れ準備をしている時に斉彬の死を知ったわけで、西郷のその後の倒幕運動は、「恩師」斉彬の遺志を継いだものだった、と言うこともできます。10年後、西郷は藩士を率いて東海道を上るわけで、斉彬のなしえなかった夢を実現します。
 と言っても藩に帰れば一介の下級武士・西郷がひとりで倒幕運動ができるわけでもなく、斉彬の死後、忠義(久光)体制になっても斉彬の遺志を継ぐ者が数多くいたわけで、それに乗る形で薩摩藩が風雲に躍り出ることができたのでしょう。
 (個人的には)この1985年の斉彬の死こそが、その後の西郷隆盛を決定づけた事件であり、「史伝 西郷隆盛」もその一点にかかっているように思われます。そんなに簡単に西郷のイメージが掴める筈はないんですが、誤解とは怖いものです(笑。

 作家によると、西郷を決定づける出来事のひとつがが月照との入水事件だというのです。月照を薩摩藩内に匿うことに失敗し、西郷と月照は抱き合って船から海に身を投げ、西郷だけが助かった例の事件です。一度死んであの世から帰って来たから「人格が一皮むけた」というのですが、如何なものでしょう。「史伝 西郷隆盛」はこの入水事件の後、幕府に気を遣った藩によって奄美大島へ追放され、大島に渡る船上で物語は終わっています。 

タグ:読書
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