kindleで読書 米原万里 嘘つきアーニャの真っ赤な真実 [日記(2014)]
kindle版、230円(値上がりしています)、amazonカスタマーレビュー125件、大宅壮一ノンフィクション賞受賞、ということで読んでみました。230円が最大の動機だったりします(笑。
よくある異文化?交流もので、ソ連の衛星国であった時代のチェコ・プラハで過ごした体験のノンフィクションです。日本共産党員の父親がプラハの『平和と社会主義の諸問題』編集局に異動したため、1959年~1964年の5年間、ソ連の「在プラハ・ソビエト学校(小中学校)」に通った体験がベースとなっています。「プラハの春」は1968年ですから、ソ連の圧倒的な影響下にある東欧の子どもたちとの交流を描いています。本書が面白いのは、著者が交流した3人の友人が、社会主義国のバルカンの国であったことです。
ギリシャア人のリッツァ(リッツァの夢見た青空)、ルーマニア人のアーニャ(嘘つきアーニャの真っ赤な真実)、ユーゴスラビア(セルビア)人のヤスミンカ(白い都のヤスミンカ)の3人の友人の過去と現在が描かれます。
リッツァの父親は軍事政権を逃れてチェコスロバキアに亡命し、編集局に務め、アーニャの父親もルーマニア労働者党の代表として編集局に勤務している、いずれも共産主義者。ヤースナの父親はユーゴスラビア連邦の在チェコスロバキア公使で当時のユーゴスラビアは、共産国家です。在プラハ・ソビエト学校とは、父親が共産主義、または共産国家に関わる子どもたちのために、ソ連が建てた学校です。3人の子供の祖国、ギリシア、ルーマニア、ユーゴスラビアはバルカン半島の国であり、政変の影響を受けた両親のもとで育ち、成長してはその後の政変が影を落としています。リッツァ、アーニャ、ヤスミンカの3人の思い出と現在が語られます。
「白い都のヤスミンカ」
1964年当時、ヤスミンカ(ヤーナス)の国籍がユーゴスラビアであること読むと、その後の彼女の変転がおおよそ想像できます。
著者がプラハで過ごした1959年~1964年の5年間は、いくらか緩んだとは未だ冷戦の時代であり、ソ連と中国の離反など共産主義が変貌を遂げてゆく時代です。その時代の変化が、子供たちの生活にも微妙な影を落とします。
事態が一気に表面化し、急速に悪化の一途をたどり始めたきっかけが、一九六三年に発効した部分的核実験停止条約をめぐる対立だった。・・・この時点で日本共産党は、部分核停に反対する立場を明確にしていた。国際共産主義運動がソ連派と中国派に色分けされ始めたこの頃、日本共産党は中国派とみなされた。
と著者は書きます。一方、チトーの率いるユーゴスラビアは、独自の社会主義体制を築きソ連から距離を置くようになります。日本共産党員の子弟である著者とユーゴスラビアのチェコ公使の娘であるヤーナスは、イデオロギーによるイジメに会い在プラハ・ソビエト学校において孤立を深め、これがふたりを結びつけます。
世界の共産主義運動の中で、左派に位置すると見られる日本共産党員の娘である私が、最右翼に位置すると思われているユーゴスラビア共産主義者同盟員の娘のヤースナと仲良くなることで、論争と人間関係は別なのだということを、なんとしても自分と周囲に示したかった。
とは言っても、14歳の少女同どうしの結びつきですから、ふたりはイデオロギー色の無い友人関係を築きます。負の連帯で結びついた多感な14歳ですから、その関係が強固なものであったことは想像に難くありません。
著者とヤーナスの帰国と、ユーゴスラビアの紛争によってふたりの交流は一旦途絶えます。著者は、ヤーナス安否を訪ね1995年11月、30年ぶりにベオグラードで劇的な再会を果たします。
在プラハ・ソビエト学校の同級生、ギリシャア人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤスミンカ3人との交流と時を隔てた再会は、出自として自ら選択できない国家と民族にまつわる運命とそれを乗り越える少女たちの物語です。なかなか感動的です。これが230円とは、安い!。
『オリガ・モリソヴナの反語法』という本書の姉妹版があるようなので、こちらも読んでみたいと思います。読んでみました。
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