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鈴木明 維新前夜 ― スフィンクスと34人のサムライ [日記(2015)]

維新前夜―スフィンクスと34人のサムライ
スフィンクス.jpg
 スフィンクスを背景に武士の一団が写った写真のインパクトは強烈です。本書は、この写真に触発された、幕府の「横浜鎖港使節団(1864)」にまつわるノンフィクションです。
 当時、日本からヨーロッパへの航路は、スエズ運河が無いため、スエズに上陸し陸路をアレクサンドリアまで行き地中海を横切るというものです。途中のカイロでピラミッドやスフィンクス観光があっても不思議はありませんが、それにしてもスフィンクスの背景に二本差し、笠を被ったサムライの記念写真には感動します。

 『南京大虐殺のまぼろし』の著者・鈴木明には、 函館で撮られた「一枚の幕末写真」に写る、4人のフランス人と4人の日本人の正体を探る『追跡 一枚の幕末写真 』 というノンフィクションがあります(これも面白いです)。本書も、スフィンクスを背景に34名のサムライが写った写真の謎を解くノンフィクションかと思ったのですが、ノンフィクション風フィクションでした。
 幕府の使節団ですから34名の名前は判明しており、彼等の日記も残っています。従って『追跡』とはならず、著者は日記、航海記を資料に使い物語風に仕立てたものと思われます。

 「横浜鎖港使節団」は、横浜港開港を先送りしようという(通商)条約破棄交渉のために、文久3年(1864)に幕府が送り出した外交使節です。一度結んだ条約の破棄を、フランスが認めないと云うことは幕府も十分承知。朝廷の攘夷の圧力をそらすために派遣されたようなもので、1年ほどかけてゆっくりヨーロッパを回っている間に情勢が変わるだろうという、かなりいいかげんな使節団です。
 文久2年には、生麦事件、英国公使館焼き討ち事件。文久3年は、徳川家茂が朝廷から攘夷実行を約束させられ、長州藩が下関で外国商船を砲撃しその報復の下関戦争、薩摩藩の薩英戦争と、攘夷一色の時代です。そうした時代の空気を吸った武士が、パリの真ん中に投げ込まれた顛末、というのが本書の主題です。

 主人公は、外国奉行支配の従者、三宅復一(またいち、秀)、勘定役の従者、名倉予何人(あなと、松窓)のふたり。実務者は、奉行、勘定役から目付け、通訳あたりまでで、見聞を広めるために優秀な人材が従者として加わっています。このふたりも、これといって役目のない外遊組で、謂わば下っぱ。若い彼らが好奇心に任せて行動し、フランス人と接触し、日本の将来を論議します。靴を履き、シャツを着、ネクタイを締める者も現れ、月代を伸ばし始めるということになります。
 西欧の文明に衝撃を受けたのは、若い従者に限りません。団長の池田長発は、製鉄所や織物工場を見た後、使節団一同に帽子を作って与えます。髷を頭に乗せていることを恥ずかしいと考えるようになったわけです。さらに池田は、ゆっくりヨーロッパを視察するという当初の予定を捨て、一刻も早く帰国して開国を幕閣に上申し、世論を開国にもって行くと言い出したのです。
 おまけに池田は、横浜鎖港どころではなく、関税の引き下げという和親条約(パリ条約)まで結んでしまいます。ミイラ取りがミイラとなったわけです。

 文久4年(1864年)7月に一行は帰国しますが、勝手に和親条約を結んで開国を主張する池田は、隠居、録高半減となり、副使、目付けも閉門蟄居となります。明治維新まで、後4年。

 尊皇攘夷ばかりが幕末ではない、と云う本です。
 社命をうけて社外に出てみれば、時代は変わりつつある。社内は過去の成功体験で凝り固まった経営陣。さぁどうする、というサラリーマンの悲哀のような話です。けっこう身につまされます(笑。

タグ:読書
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