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夏目漱石 それから [日記(2015)]

それからそれから・門 (文春文庫)
 『三四郎』に続く漱石前期三部作の第ニ作です。

有夫ノ婦姦通シタルトキハ二年以下ノ懲役ニ處ス其相姦シタル者亦同シ
前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス但本夫姦通ヲ縱容シタルトキハ告訴ノ效ナシ

(旧刑法第183条)

明治42年(1909年)、姦通罪が存在する時代に書かれた、親友の妻を奪うという「姦通小説」です。

【遊民】
 主人公の代助もまた、『こころ』の先生同様無為徒食の遊民です。先生は親の遺した財産で金利生活を送っていましたが、代助は、生活費を実家に無心して暮らしている身分。大学を出ても職に就かず、一家を構え身の回りの世話をする婆さんと書生を抱え、本を読み、音楽会や歌舞伎に出掛けるという結構な身分です。こういう人種が小説の主人公になり得るわけですから不思議ですが、生活に惑わされないぶん、小説の主題を精鋭化させることができる、と言えば言えます。

 漱石が、代助にどういう自己弁護を用意しているかというと、

「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」 (と父親に言われ)
代助は決してのらくらして居るとは思はない。たゞ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈(だけ)である。親爺が斯んな事を云ふたびに、実は気の毒になる。親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつゝある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出してゐるのが、全く映らないのである。

「有意義」に日を送っているらしいが、特段何かを研究する訳でもなく、著述を世に問う訳でもありません。 

何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。
日本国中何所を見渡したつて、輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間に立つて僕一人が、何と云つたつて、何を為たつて、仕様がないさ。

とうそぶき、日本は背伸びをして一等国の仲間入りをしているがその実態は「暗黒」。そんななかで自分ひとりが働いても意味は無い、だから遊んで暮らすという屁理屈。では、代助にとって「働く」とは、

働らくのも可いが、働らくなら、生活以上の働でなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麵麭(パン)を離れてゐる

だそうです。働いていないのですから、どうだって言えます。

 代助は、親の勧める縁談を蹴り、姦通罪スレスレの結婚を望んだため、屁理屈は破れパンの為に働くことなります。「遊民」代助は、漱石の仕掛けた虚像だと言えます。

【家族】
 代助に「幼稚な頭脳」と蔑まれた父親は、十七のとき侍を切り殺し切腹一歩手前までいったという経歴の持ち主。明治になって会社を興し、長男とともに実業界の一角を占めるという明治の富裕層です。代助は、この父親と兄から毎月生活費を貰って暮らしています。
 小説の中で、日糖事件、東洋汽船の疑獄事件の言及があり、父親の会社にも後暗いところが匂わされ、父親が勧める結婚もこうした背景の元での政略結婚として描かれます。
 従って、姦通罪スレスレの三千代との結婚は、家族との絶縁を意味し、父親に代表される江戸の因習と明治の驕奢からの決別でもあるわけです。

【三角関係】
 代助は平岡に三千代への思慕を打ち明けられ、友情を優先して平岡に三千代をゆずったという過去があります。その平岡が、仕事のトラブルで会社を辞め関西から東京に戻ってきます。平岡は、借金を抱え思うような再就職もかなわず、身体をこわした三千代との生活も破綻しつつあると云う状況です。
 代助は、親友とその妻の苦境を救おうと奔走する間に、三千代への思慕が復活し、三千代を救うため、三千代との愛を取り戻すために、時間を3年前に巻き戻そうとします。
  
 この辺りの三千代と代助のかけひき?は読ませます。
 三千代は、平岡のこしらえた借金の返済のため、代助を訪れ援助を請います。代助が用立てた金のお礼に来た時の描写です、

(三千代は)セルの単衣の下に襦袢を重ねて、手に大きな白い百合の花を三本許提げてゐた。其百合をいきなり洋卓の上に投げる様に置いて、其横にある椅子へ腰を卸した。さうして、結つた許の銀杏返を、構はず、椅子の脊に押し付けて・・・

 百合はかつて代助が三千代に贈った花です。三千代の髪型は「銀杏返」。銀杏返は、独身の若い女性が結う髪であり、普通既婚女性は結いません。この時三千代もまた、百合と銀杏返で3年前に時間を巻き戻したことになります。代助の親切が親友の妻への好意を越えたものであることを察し、それに答えたものです(半藤一利『漱石先生ぞな、もし』)。漱石が知っていたかどうかは別にして、百合の花言葉は「純潔」です。

 代助が三千代に愛を告白する場面です。代助は百合を買い部屋いっぱに飾り、

「覚えてゐますか」
「覚えてゐますわ」
「貴方は派手な半襟を掛けて、銀杏返しに結つてゐましたね」
「だつて、東京へ来立(きたて)だつたんですもの。ぢき已(や)めて仕舞つたわ」
「此間百合の花を持つて来て下さつた時も、銀杏返しぢやなかつたですか」
「あら、気が付いて。あれは、あの時限(かぎり)なのよ」
「あの時はあんな髷に結ひ度(たく)なつたんですか」
「えゝ、気迷れに一寸結つて見たかつたの」
「僕はあの髷を見て、昔を思ひ出した」
「さう」
と三千代は恥づかしさうに肯(うけが)つた
 
ひとしきり泣いた後、三千代は

「仕様がない。覚悟を極めませう」

この小説のクライマックスです、上手いですね。

【『こころ』との関係】
 『それから』は、代助が親友・平岡の妻・三千代を略奪する三角関係の話です。
 代助は、平岡から三千代を愛していることを告げられ、平岡に三千代を譲ります。『こころ』では、先生は、Kから嬢さんへの思慕を打ち明けられ、Kを出し抜いて(裏切って)お嬢さんを奪います。『それから』と『こころ』は、ちょうど表裏の関係にあると言えます。三角関係精算の代価は、実家からの経済的援助の打ちきりと、親友Kの自殺です。

 『こころ』のもうひとつの三角関係、先生とお嬢さんと私の三角関係を『それから』に当てはめてみると、危篤の父親を捨てて先生の奥さん(=お嬢さん)を追って東京に向かった私は、奥さんと結ばれたとしても(小森陽一説)、実家からの支援を打ち切られ、代助同様に職を求めて真夏の東京をさ迷うことになった筈です(もっとも先生の遺産があるのでそうはならなかったでしょうが)。

 『それから』を読むと、『こころ』の「両親と私」が代助の父親、兄=長井家と見事に対をなしていることが分かります。さらに、三角関係と血縁に「お金」が介在することも同様です。

 漱石の小説は、三角関係と血縁と金の三大噺なのでしょうか。 

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