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永井荷風 つゆのあとさき(1931) [日記(2016)]

つゆのあとさき (岩波文庫 緑 41-4)つゆのあとさき
 映画『濹東綺譚』が面白かったので →青空文庫です。『あめりか物語』『ふらんす物語』あたりから読んでみたかったのですが未だ「作業中」。『腕くらべ』『おかめ笹』も作業中で、中編『つゆのあとさき』を読んでみました。

 『断腸亭日乗』に、「余が帰朝以来馴染みを重ねたる女」の一覧があります。「この他臨時のもの挙ぐるに遑(いとま)あらず」の欄外墨書の中に”吉田ひさ 銀座タイガ女給、大正15中”の名があります。『つゆのあとさき』は、この吉田ひさをモデルに、カフェーの女給・君江と小説家・清岡の交情を描いた小説です。一覧には16人の女性が登場しますが、「帰朝以来 」ですから実質はもっといるはずです(昭和11年の日記ですから、『濹東綺譚』のお雪は登場しません)。この一覧は興味深いので、後程ゆっくり研究します(笑。
 カフェーや吉原、玉の井に通って取材してそれを小説にするのですから、趣味と実益を兼ねています、荷風先生アッパレです。

 女給と小説家の情事を描いた風俗小説には違いないのですが、そこは荷風センセイですから、生々しい女給の生態から男女の心理あり、文明批評あり自然描写ありで飽きさせません。女給の君江、小説家の清岡に清岡の妻・鶴子がからみます。
 君江は21歳。17歳の時、親の押し付ける結婚を嫌って上京し、事務員、私娼、女給と、普通に言えば「転落」の人生ですが、全く意に介さず自由奔放に生きる女性です。清岡をパトロンとしつつ、言い寄る男と適当に遊び、情事を楽しむという荷風好みの女。

容貌はまず十人並で、これと目に立つ処はない。額は円く、眉も薄く眼も細く、横から見ると随分しゃくれた中低の顔であるが、富士額の生際が鬘をつけたように鮮かで、下唇の出た口元に言われぬ愛嬌があって、物言う時歯並の好い、瓢の種のような歯の間から、舌の先を動かすのが一際愛くるしく見られた。この外には色の白いのと、撫肩のすらりとした後姿が美点の中の第一であろう。

これが荷風センセイの好みのようです。おまけに多情。

(清岡とは)何しろ二年越しの間柄なので、何事に限らず大抵の事は清岡には知られていると思っているが、さてどの辺まで知られているか、それは君江にも当がつかない。君江は何か好い折があったら、清岡とは関係を断ってさっぱりとして、自分の過去の事を少しも知らない新しい恋人を得たいという気にもなっている。

 一方の清岡はというと、書いた小説がたまたま当たり、流行作家となります。流行作家となって金ができると、映画女優を囲い芸者遊びに精を出し今度は君江と懇ろになるという始末。妻・鶴子に言わせると「世間の流行に目を着け、営利にのみ汲々としているところは先相場師と興行師とを兼業した」ような軽薄分子。これ、自分こと仰っているんですか、センセイ

鶴子は五年前、年齢は二十三の秋、前の夫が陸軍大学を出て西洋へ留学中、軽井沢のホテルで清岡進と道ならぬ恋に陥ったのである。

 「女好きなれど処女を犯したることなく、又道ならぬ恋をなしたる事無し。五十年の生涯を顧みて夢見のわるい事一つも為したることなし」と玄人専門を信条とする荷風は、道ならぬ恋に走った清岡を唾棄すべき男として描きます。山手の婦人や娘を嫌悪していた荷風ですから、鶴子を突き放して書くかと思ったのですが、清岡の父親を登場させて身の上を案じるなど扱いは意外と優しいです。
 清岡がこんな調子ですから、鶴子は愛想をつかし 今では名ばかり夫婦。君江、清岡、鶴子の三角関係にどう決着をつけるかというのが荷風の腕の見せどころです。

 極めつけは、カフェーで君江を巡って客がかち合うくだりです。君江は馴染客・松崎の知恵でこの難局を切り抜けます。こういう際どい客あしらいは、 荷風がカフェーに通いつめた「取材」の成果なのでしょう。君江に知恵を授けた松崎は、元高級官僚で疑獄事件に連座し今では悠々自適、荷風を彷彿とさせる老人です。

君江のような、生れながらにして女子の羞耻と貞操の観念とを欠いている女は、女給の中には彼一人のみでなく、まだ沢山あるにちがいない。・・・これを要するに時代の空気からだと思えば時勢の変遷ほど驚くべきものはない。

人間の世は過去も将来もなく唯その日その日の苦楽が存するばかりで、毀誉も褒貶も共に深く意とするには及ばないような気がしてくる。果して然りとすれば、自分の生涯などはまず人間中の最幸福なるものと思わなければならない。年は六十になってなお病なく、二十の女給を捉えて世を憚らず往々青年の如く相戯れて更に愧(はじ)る心さえない。この一事だけでもその幸福は遥に王侯に優る所があるだろうと、松崎博士は覚えず声を出して笑おうとした。

 笑っているのは間違いなく荷風その人でしょう。君江、鶴子にどう決着をつけたかというと、鶴子はフランスに旅立ち、君江は出所して行くあての無い男と出会い、一夜の宿と身体を与えて慰めます。『濹東綺譚』で玉の井の娼婦お雪を”ミューズ”(女神)と称えたように、荷風は君江を”聖女”に仕立てあげます。
 昭和6年の女給の生態を描いた風俗小説ですが、今読んでもそれほど違和感がありません。

【蛇足】
 清岡が、君江とかつて関係のあった男の会話を盗み聞きする箇所です。

久しぶり、三人で夜明しするのも面白い。諏訪町の二階では実にいろいろな事をしたね。とにかくお前と京子とは実にいい相棒だよ。僕は昼間真面目な仕事をしている最中でも、ふいと妙な事を考え出すと、すぐにお前の事を思出す。それから京子の事を思出して、夢でも見ているような心持になるんだ。

さらっと書いてますが、まぁ相当に淫靡な内容です。

タグ:読書
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