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司馬遼太郎 歳月(1) [日記(2018)]

新装版 歳月(上) (講談社文庫)  薩長土肥の「肥」の物語です。主人公は「佐賀の乱」の首謀者、元新政府参議、司法卿・江藤新平。
 700頁の長編で、わずか60頁で大政奉還を迎えますから、幕末はホンの少し。物語は、江藤が新政府に出仕し司法卿として辣腕を振るい、薩長閥と闘い佐賀の乱で倒れるまでを描いています。

 肥前佐賀藩の藩主閑叟は、藩軍洋式化のために、反射炉を作り製鉄業を起こし、銃器の製造から蒸気船まで独力で作ってしまう開明派の大名。一方で佐幕派の閑叟は藩士が勤王思想に染まることを恐れ、他藩との交流を禁じる「二重鎖国」の政策をとる保守派。従って薩長土のように志士が育たず、尊皇攘夷が沸騰することもなかったわけです。鍋島藩が幕末ギリギリまで政治に登場しなかったのは、こうした理由によります。

 薩摩藩は組織的に倒幕に参加し、長州藩は藩滅亡の危機を潜り抜け、土佐藩は坂本龍馬などの下級武士が倒幕に参加しますが、藩としては鳥羽伏見の戦いとなってやっと維新の風雲に登場、というそれぞれの経緯があります。佐賀藩がギリギリで登場し、維新の主流の一角を占め得たのは、アームストロング砲などを備えた藩軍の存在です。幕末に犠牲者を出さず、鳥羽伏見では日和見、上野の彰義隊の討伐、会津、北陸、奥羽戦争に遅れて参加しただけの鍋島藩は、四番目の位置しか占められなかったわけです。
 主流派の薩長は新政府に大量の人員を送り込み枢要な地位を独占し、非主流派の土佐は自由民権運動に走り、佐賀は暴発します。維新政府における四藩の力関係がこの小説の主題だとも言えます。

 「二重鎖国」の佐賀藩にも少数ながら勤王派は存在し、「義祭同盟」に依る江藤新平、大隈重信、副島種臣、大木喬任等がそれです。江藤は文久二年(1862)29歳で脱藩し、京都で桂小五郎、伊藤博文等から情報を収集、帰藩して藩主閑叟に「京都見聞」を提出します。江藤は、御目見え以下の下級武士で、父親は永蟄居の身であり食うや食わずの困窮のなかにあります。そんな江藤が、脱藩して京都に潜入し情報収集して藩主に報告するわけです。藩に帰れば処刑です。時代に対する危機感とともに、強い上昇志向が見て取れます。

 江藤は、閑叟の温情で処刑を免れ6年の蟄居を命じられ、幕府が倒れた慶応三年(1867)34歳で藩外交の役人(二十石!)として京都政界にデヴューします。江藤は三条実美に食いこみ、その明晰な論理と佐賀藩の軍事力をバックに新政府の一角に地位を築き、新国家の制度、法律を作る司法卿(大臣)に上り詰めます。その日の食にも事欠く佐賀藩の卑賤の役人が大臣になるのですから、革命の手品を見るようです。(つづく)

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