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映画 沈黙 -サイレンス-(2017米) [日記(2018)]

沈黙-サイレンス- [DVD]  原作は遠藤周作『沈黙』。マーティン・スコセッシが長年あたためていた主題だそうです。スコセッシには、キリストの受難と再生を描いた『最後の誘惑』という「怪作」がありますから、スコセッシにとってキリスト教あるいはイエスは重要なテーマのようです。

 原作は、徳川幕府の基督教徒弾圧を前に神は何故沈黙するのか?、と神の存在を問う小説です。当然、神は沈黙を守るだけです。問いかけた側は、神は存在しないと結論付けるか、沈黙の理由を探し出して自らを納得させる他はないわけです。

 17世紀、ポルトガルの神父ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)が、師である神父フェレイラ(リーアム・ニーソン)の消息を求めて長崎に上陸します。幕府によって基督教は禁教となり、修道会士、基督教徒(高山右近等)は国外追放となり、棄教しない基督教徒は処刑されるという時代に、ふたりの神父はやってきたことになります。
 隠れ信徒がロドリゴとガルペを匿い、それが発覚して棄教のため拷問にかけられる前半と、捕まったロドリゴが棄教し岡田三右衛門となる後半に分かれます。前半と後半をつなぐのが、神父ロドリゴの「棄教」、信仰を捨てるというドラマです。これが映画の(当然原作の)テーマです。
 キリスト教に対する弾圧はイエスが生きた時代の神話の世界です。現代のキリスト教徒が、その神話を、雲仙地獄の熱湯、穴吊り、簀巻き、水責めの拷問をハリウッド映画として見ることになります。多数の人が神の存在を信じ、キリスト教が絶対の正義である日常に、この拷問と神父が信仰を捨てる背信を持ち込みます。マーティン・スコセッシが『沈黙』を映画化した理由もそこにあるのかも知れません。

 棄教を迫る最も手軽な方法が脅迫と拷問です。肉体を痛めつけることによって、その上に乗っかった精神を改造しようという方法です。一体となった精神と肉体の「綱引き」で、肉体の苦痛に耐えられず精神が負ければ「棄教(転ぶ)」、精神が勝てば肉体が滅ぶ「殉教」となります。キチジロー(窪塚洋介)は「転び」、モキチ(塚本晋也)は「殉教」者となります。キチジローは、宗門改めで家族は「殉教」者となり本人は「転」んだ過去を持っています。今回も易々と「踏み絵」を踏み、マリア像に唾を吐きかけて「転」びます。観客は、アンタはモキチなのかキチジローなのかと問われることになります →私は当然にキチジロー!。
 神父を拷問にかけても殉教者となり、信徒の信仰を強めるだけだと考えた役人は、棄教を迫るもう一つの方法「脅迫」を選択します。オマエが棄教しないなら信徒を殺すゾ!という脅迫です。江戸役人の狡智ここに極まるということです。ガルペは信仰を選択し信徒を見殺しにし、ロドリゴは信徒の命を守るため「転び」ます。アンタはガルペなのかロドリゴなのか?です →気の弱い私は当然にロドリゴ!。
 映画は、観客はモキチなのかキチジローなのか?、ガルペなのかロドリゴなのか?を問い、誰もがモキチやガルペになる必要はない、キチジローでいいのだ、ロドリゴやフェレイラでいいのだと慰めます。

 クライマックスは、ロドリゴが踏み絵を踏むシーンです。ロドリゴは、ゲッセマネのイエスに自分を重ね祈りを捧げます。呻き声と(牢番の)イビキが聞こえ、ロドリゴは牢番を呼び誰かが苦しんでいるのにイビキをかくとは何事か、助けてやれ、と叫びます。フェレイラは、それはイビキではなく5人の信徒が穴吊りにされ苦しんでいる呻き声だと告げます。5人を助ける唯一の方法はロドリゴが棄教することであり、どれほど祈っても神は沈黙するだけだ、イエスがこの場にいたならきっと踏み絵を踏んだ、と棄教を勧めます。ゲッセマネのイエスに自分を重ねたロドリゴの矜持は、呻き声とイビキを聞き間違えるという単純な錯誤の前で脆くも崩れます。
 踏み絵に描かれたイエスはロドリゴに、
 踏みなさい お前の痛みは知っている 私は人々の痛みを分かつために この世に生まれ 十字架を背負ったのだ お前の命は私とともにある 踏みなさい
と語りかけ、ロドリゴは「踏み」ます。このイエスのセリフは小説と同じですが、小説ではもう一句加わります。
 私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいた
この世の(例えば拷問という)現実の前で神は沈黙することしかできない(無力なのだ)、一緒に苦しんでいる神が存在している、それを知ることが信仰なのだ、と言うことでしょうか。

 ここでキチジローの存在が重要になってきます。キチジローは家族が殉教した中ただ一人転び、(本人は脅されたと言ってますが)銀三百枚でロドリゴを役人に売った人間です。キチジローは役人にキリシタンであることを明かし、ロドリゴの牢に入って告解を願い出ます。彼はまた、ロドリゴが棄教して岡田三右衛門となった後も下僕として仕えます。フェレイラとロドリゴの棄教に至る文脈で考えるなら、キチジローもまた敬虔な「キリスト教徒」なのです。観客よ、アンタは弱いキチジローでいいのだ、フェレイラとロドリゴでいいのだ、というメッセージです。

監督:マーティン・スコセッシ
出演:アンドリュー・ガーフィールド リーアム・ニーソン アダム・ドライヴァー 窪塚洋介 浅野忠信 イッセー尾形 塚本晋也

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