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司馬遼太郎 翔ぶが如く(4) [日記(2019)]

新装版 翔ぶが如く (5) (文春文庫) 新装版 翔ぶが如く (6) (文春文庫) 続きです。
下山
 征韓論に破れ鹿児島に帰った西郷は政治的判断で城下から姿を消し、狩猟に日々を送っています。「弾薬庫襲撃事件」によって隠遁先(正確には狩猟)の山を下り2月3日武の自宅に戻ります。征韓論政争は、富国強兵によって近代国家を作ろうとする大久保と、国家を作るのは国民の高邁な精神だとする西郷の、国家観の違いによる二人の確執だということができます。

 自宅にかえると早速桐野利秋、篠原国幹が現れ、最後夫人いと子によると、
 
桐野さんや篠原さんがお見えになりまして、おん二方から、かうなつた上は軍勢を率ゐて立たなければならない、とて頻りに主人に勧告されましたが、主人は頑としてこれに応じなかつたのであります。

 私学校は、西郷の発意によるものではないにしても、謂わば西郷党というべき存在であり、その生徒が弾薬庫襲撃事件を起こしたことについて何程かの責任を感じた筈です(この事件によって山から城下に帰ったわけですから)。加えて政府派遣の警察官による暗殺計画が浮上し、西郷は2月5日東上を決意します。決起ではなく、東京の太政官に「詰問する」という名分であり、大挙兵を率いるという考えはなかったとようです。

西郷の第一子・菊次郎によると

そいじゃ、オイの体を上げまっしょ

というのが、西郷が私学校幹部に自分の決意を伝えた言葉だそうです。

西郷は、状況を判断する場合、事が自分一個の身の振りかたになってくるとどうやら思考が停止してしまうらしい。政略も戦略も考えず、要するに身をかばうことを一切しなかった。このときも、その病癖ともいうべき自棄的衝動のなかに一挙に運命を託してしまったというほかない。

作者は、西郷の決断を「隠遁への衝動」、幕末に大久保を悩ました自己放擲と考えます。

【大評定】
 2月6日、西郷を迎えて私学校本部において大評定が開かれます。西郷隆盛を真ん中に、辺見十郎太、西郷小兵衛、淵辺群平、池上四郎、別府晋介、桐野利秋、篠原国幹、村田新八、永山弥一郎、中島健彦、野村忍介の私学校幹部が左右を固めます。
 全員が挙兵派ということでもなく、永山弥一郎などの反対派もあります、

陸海軍は国家を守る機関にして、こんにちようやく整備の緒についたばかりである。それに対して兵を挙げ、これと争うこと、はたしてそれが是であるかどうか、これは考えるべきことである。私がいまいえることは他日、日本国に外患がある場合、われらは外患に対してこそ備えるべきではないかということだ

西郷と幹部数人が東上し大久保と話し合えば誤解も解けるという折衷案も、「命が惜しいか」という挙兵派の一言で封殺され、桐野利秋の

いまとなれば断の一字があるのみである・・・廟堂を清め、弊政を一新、これがため先生をば押したて、旗を東京に進めるべく、鹿児島県をあげて出兵する以外に方途はない

と西郷に決断を迫ります。

自分は、何もいうことはない。一同がその気であればそれでよいのである。自分はこの体を差しあげますから、あとはよいようにして下され

という西郷の言葉で決起が決まります。西郷に戦略や勝算はあったのか?県令・大山は

西郷、云く。大将の任たるや、全国の兵を率ゆるも、天皇陛下の特許にして、則ち大将の権内なり。時機次第、鎮台兵をも引率すべし

 という西郷の言葉を残しています。陸軍大将である自分が兵馬を進めれば、熊本鎮台もついてくるはずだという楽観論です。
 翌2月7日、厩あとの「薩軍本営」で作戦会議が開かれ、桐野利秋や篠原国幹の「熊本城を押しつぶしてゆこう」という方針が決定します。庶民の徴兵から成る鎮台兵など何ほどのことがあるか、という最強を謳われた薩摩武士の奢りに他なりません。幕末に政略戦略を駆使した西郷は、何処へ行ってしまったんだろうという杜撰な作戦です。西郷は自己を放擲したという作者の見方に肯かざるを得ません。

 2月9日、大久保の意を汲んだ川村純義(薩摩)が鹿児島湾に入り、西郷に面会を求めます。篠原はこれを止め西郷は従います。川村と会えば別の道が開けたかもしれません。篠原にすればこれを怖れたのでしょうが、いくらオイの体を上げまっしょとはいえ、幕末の戦乱をくぐった同志に会うことままならず、殆んど自己を捨てているようです。

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