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司馬遼太郎 翔ぶが如く(5) [日記(2019)]

新装版 翔ぶが如く (5) (文春文庫) 新装版 翔ぶが如く (6) (文春文庫)  西郷挙兵の章の名称は雷発です。西南戦争は、明治維新が瓦解してしまうかもしれない危機であり、新政府にとっては「雷」以上の衝撃が走ったことでしょう。

 西郷が挙兵する顛末を時系列にすると、

1月29日:私学校生徒が弾薬庫を襲う
2月3日:西郷下山、武の自宅に戻る、帰郷団、中原尚雄ら逮捕
2月5日:西郷東上を決意
2月6日:西郷を迎えて私学校本部において大評定
2月7日:「薩軍本営」で作戦会議
2月9日:川村純義(薩摩)が鹿児島湾に入り西郷に面会を求める
2月11日:西郷、アーネスト・サトウ、ウィリアム・ウィリスと会う
2月12日:西郷、「陸軍大将」の名で県令大山綱良に対し出兵の届出
2月14日:伊敷村玉江練兵場で出陣の閲兵、東京、熊本鎮台へ使者
2月15日~17:出陣

 本書によると、西郷は大評定、作戦会議においても発言せず、川村純義の面会要請も篠原の反対で思いとどまります。アーネスト・サトウ、ウィリアム・ウィリスとの面会以外、出兵届、閲兵と一連の行動はすべて桐野ら私学校幹部の書いた筋書きを西郷は演じているだけです。

起つ以上は、戦いの方針その他について西郷はみずから案も練り、みずから発言し、進んでかれらを指導すべきであった。が、そのことはいっさいせず、さらに驚くべきことには、西南戦争の全期間を通じて西郷は一度も陣頭に立たず、一度も作戦に口出ししなかったのである。

 西郷は、征韓論を主張して後西南戦争から城山で自害するまで、まるで自己を放擲したようです。

 2月14日、西郷は陸軍大将の制服を着て伊敷村玉江練兵場で出陣の閲兵を行います。政府は西郷に陸軍大将の給与を払い続けていますから依然陸軍大将ですが、職をなげうって帰郷した以上、西郷の心情としては最早陸軍大将とは思っていなかった筈です。ところが、県令大山に出した出兵届け、熊本鎮台への書面で「陸軍大将」を名乗っています。
 熊本鎮台への書面は、「自分はこのたび政府に尋問すべきこと(西郷暗殺を指す)があって鹿児島県を発する。鎮台のそばを通過するときは、鎮台兵を整列させ私の指揮を受けよ」というものです。書面は私学校幹部の書いたものであり、制服の着用も彼らの勧めであったにしても、維新の英雄・西郷の面影は何処にもありません。軍服については西郷だけではなく、桐野、篠原も陸軍少将の軍服を着用しています(村田新八はフロックコートにシルクハット)。薩摩の組織を公に対する「私」学校とし、「薩軍本営」としたことと矛盾するにではないかと思います。

 西郷のこの変貌こそが、西南戦争の最大の謎です。

 一方の熊本鎮台。司令官の谷干城は籠城作戦を取ります。兵糧を集積し城を要塞化し、兵2500(後援兵900が加わる)が加藤清正が築いた堅城に拠ります。谷干城は土佐藩出身ですが参謀長樺山資紀は西郷に引き立てられた薩人であり、鎮台将校のなかに薩人が多いため、薩軍の工作、内通によって寝返る危険があります。ところが、幕末にあれほど謀略を駆使した西郷は、一切の工作もしません。桐野、篠原にしても、百姓町人の熊本鎮台など恐れるに足らず、あるいは樺山資紀ら薩人が城の門を開くと考えていたのでしょう。

 新政府はどう考えていたか?。大久保は、弾薬強奪事件は桐野以下の暴発と考え、挙兵を知っても西郷はその中にいないと考えています。薩摩が新政府に反旗を翻し独立国の態をなしていることについて苦々しく思っている大久保は、これをチャンスと考えたわけです。

「誠に朝廷(にとって)不幸(中)の幸と 窃 に心中には笑を生候位に有之候」 と、大久保はいうのである。

 西郷軍の陣容は、大隊5個の1万人と郷士による1000人規模の独立大隊が2個、他に砲隊が2個兵員400の総勢約13000名(後これに宮崎八郎ら熊本の士族1000余が加わる)。第一番大隊篠原国幹、二番大隊村田新八、三番大隊永山弥一郎、四番大隊桐野利秋、五番大隊池上四郎、独立大隊別府晋介が率います。
 西郷は護衛50名と大砲16門の砲兵隊を伴って17日に出陣。桐野、篠原がこれに従います。当日は南国には珍しい雪。日本の歴史にとどめられる事件には「雪」が似合います。

タグ:読書
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