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半藤一利 続・漱石先生ぞな、もし [日記(2008)]


続・漱石先生ぞな、もし (文春文庫)

続・漱石先生ぞな、もし (文春文庫)

  • 作者: 半藤 一利
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1996/12
  • メディア: 文庫


 歴史探偵・半藤一利による『漱石先生ぞな、もし』の続編です。正続とも、文豪『夏目漱石』と市井の人『夏目金之助』のちょうど中間の辺りからこの二人を眺めているところが魅力です。

【明治29年1月3日の句会】
 著者が描く明治29年1月3日の正岡子規が開いた新年の(俳)句会は圧巻です。子規に加え、高浜虚子、内藤鳴雪、河東碧梧桐、河東可全、五百木飄亭に加え森鴎外、漱石が加わります。鴎外は当時『舞姫』『うたかたの記』を出版し、軍人としては陸軍軍医監で軍医学校長です。一方漱石は一介の愛媛・松山中学の英語教師。このふたりはその時が初対面、鴎外33歳、漱石28歳の春です。おまけにというか、漱石は鏡子との婚約の直後、鴎外は句会に遅刻しています。こうした状況の下で鴎外と漱石が発句とあいなるわけです。明治という時代は凄いです。この時、鴎外は俳句を作っていないようですが、あの鴎外が俳句をひねっていたとは以外でした。
 さらに興味深いのは、終生、鴎外は漱石をライバルとして?気にしていたらしいのです。鴎外の『青年』が漱石の『三四郎』の同工異曲とは知りませんでした。
『鴎外は、武士の出で、津和野の田舎者で、位記勲等をびた支配階級の一員、常に端然として正座、寝ころんで人と話すこともできぬ。漱石は町人生まれで、江戸ッ子で、一介の民間人、ときには寝ころんで妻や門下生とダジャレをとばしている』
とした上で、両人がモットーとした『守拙』を引き、鴎外は心の奥底で漱石を羨ましく重い友情を感じていたのではないかと書きます。
漱石の葬儀にも参列していますが、如何なる感慨を抱いたのでしょうか。『余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス、墓ハ森林太郎ノ外一字モホル可ラス』と遺言した鴎外も、漱石と同類の明治の知識人として亡くなった様です。

【『坊ちゃん』執筆の経緯】
 国民的小説とも云うべき『坊ちゃん』ですが、その成り立ちにについて半藤利一は面白い分析をしています。ご存じの様に、『坊ちゃん』は赤シャツや野ダイコなど権威に強烈な鉄拳を食らわせて松山を去るという勧善懲悪小説です。この『坊ちゃん』はわずか1週間で脱稿されているところから、探偵・半藤利一は漱石をして『坊ちゃん』を書かしめた原因があるのではないかと考えます。『坊ちゃん』の舞台は愛媛・松山、漱石が松山中学の教師をしていたのは明治28年~29年、『坊ちゃん』執筆は39年ですから、10年前の松山を舞台にわずか1週間で生まれた『坊ちゃん』執筆には隠れた動機、事件がありそうです

 著者が見つけた事件とは、漱石の『英文科入学試験委員辞任事件』です。何の事はない、入学試験の問題は教授会が作るが、試験の実施と採点は講師にやらせると云う権威主義敵な命令に反発したわけです。著者によると、
『担任以外の余計な仕事をやらせようというなら、「金銭か、敬礼か、依頼か、何らかの報酬が必要である。それがなくて単に・・・嘱託相成り候間右申し進候也という命令」に誰が従えるもんか。礼を失した強健なんかくそくらえ、という江戸っ子的反骨を漱石は見事に示している。』
ということです。
こうした当時の東京帝大の教授連を赤シャツ、野だいこ、うらなり、狸にみたて、10年前の職場、松山中学を舞台に怒りを一気にぶちまけたのが『坊ちゃん』ということらしのです。この試験委員辞任は、教授、博士への道を自ら閉ざす行為であるわけですから、漱石の偏屈もなかなかです。
 後、文部省が有名作家となった漱石に文学博士を贈ろうとしたときも、決然とこれを断ります。漱石の反骨は筋金いりです。
 というようなエピソードぎっしり詰まった好著です。★★★★
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