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スパイ・ゾルゲを読む 上海の諜報組織 [日記(2009)]

ガーデンブリッジ.jpg
ガーデンブリッジから上海大厦(ブロードウェーマンション、児玉機関もあった)を望む。
ゾルゲと尾崎秀実はこのガーデンブリッジで落ち合い、何処ともなく消えたのでしょう。私が上海へ行っていた頃は、デートの名所でした。

 上海でゾルゲが組織した諜報組織です。
ソ連諜報グループ
1)ジムもしくはレーマン・グループ
 赤軍第四部本部派遣。主に上海と中国各地、モスクワ間に無線通信の設備を設置するのが任務。クラウゼンは最初このグループに属していた。無線設備をゾルゲに引き継いで解散した模様?。

2)ハルピン・グループ(満州)
 赤軍第四部本部派遣、リーダーはオット・グレムベルグ。任務は満州の軍事情報の収集。ゾルゲ情報の中継役を担当し、資金もこのルートでゾルゲに届いた。このグループとの連絡方法について、ゾルゲはこう書いています、

 ハルピンからグループの誰かが上海にやってきて「郵便ポスト式通信」方法の技術的な打ち合わせを行った。そのあとで、ハルピンと上海の双方のグループから代わる代わる人を出して両地間を旅行させ、郵便屋の役を務めさせたのであった。

何のことはないハンドキャリーじゃないですか。クラウゼンもこの役をこなし、ゾルゲ自身も1933年春自らやっています。

3)フローリッヒ・フェルトマン・グループ(上海)
 赤軍第四部本部派遣。リーダーのフローリッヒ・フェルトマンはソビエト陸軍少将。任務は中共軍との連絡、中共軍についての情報収集。『彼らは使命を果たすことができず1931年上海を去った』。

4)コミンテルン・グループ(上海)
 政治班と組織班に分かれ、組織班のリーダーはノウスレン(『ノウスレン事件』によって検挙)、後カール・レッセ。組織班の任務は、コミンテルン、中国共産党、及び上海コミンテルングループの政治班との連絡及び非合法活動の援助、資金の仲介。
 政治班のリーダーは(ゾルゲと旧知の)ゲルハルト。任務はコミンテルン総会で議決された事項の中国共産党への伝達、コミンテルンとの情報交換の仲介、中国の労働問題のコミンテルンへの報告。『ノウスレン事件』により解散の模様。

 ゾルゲはジムの後任として上海に派遣されていますが、任務の性格上各グループとは没交渉であり、ハルピングループとは郵便ポスト以上の接触は無く、他のグループとも任務の連携はしていない様です。中国共産党とはモスクワより接触を禁じられていました。

 赤軍、コミンテルンだけでもこれだけのグループがいるのですから、アメリカ、ヨーロッパ列強、日本といくつもの諜報グループがあり、魔都・上海で諜報戦にしのぎを削っていたのでしょう。

ゾルゲ・グループ
 ゾルゲは上記のれーマングループを引き継いでいますが、彼の供述をみると、スメドレー人脈を利用し独自の組織を作っていったようです。

<<中国人メンバー>>
われわれはたいてい夜遅く会うことにし、天候が許すかぎり雑踏している街頭を用いた。われわれはまた個人の家、たとえば王の家や私が出入りしやすい外国人の家でも会った。一カ所で度々会うと目につきやすいので、随時場所を変えるようにしていた。
:スメドレーの紹介。通訳、資料、情報の収集。中国人メンバーへの情報は王を経由して行われた。
王の妻:後、南京政府外交部で働き、ゾルゲに経済、軍事情報をもたらす。
広東女性、:スメドレーの紹介、広東に在住し華南の経済・軍事情報を収集。
チュイ夫人:広東でゾルゲグループに加わる。華南問題及び広東、上海の連絡を担当。のち夫もグループに合流。
シン:王の紹介。南京に駐在し政治情勢を収集。

他に王がリクルートしたパイ(上海の連絡要員)、リー(南京上海間の連絡要員)が存在します。

スメドレー⇒王のルートによるリクルートで、すさらに王を通じて、北京、漢口、広東にも情報提供者がいた様です。いずれも人民革命運動のシンパで中国共産党員ではないと言っています。内務省の調書によると、川合貞吉中国共産党員の指導下にあり、姜より尾崎を通じてゾルゲに紹介された記述があります。が『広東女性、』と同一人物か確認できませんが、ゾルゲが避けようとも、尾崎を始め中国共産党人脈がゾルゲ・グループにしっかり食い込んでいたものと思われます。

<<外国人メンバー>>
アグネス・スメドレー:フランクフルター・ツァイトング紙の通信員(特派員)。米国のジャーナリストで中国共産党に関する著作(朱德の伝記など)で著名。コミンテルンに所属していたようで、コミンテルンを通じてか、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員同士としてか、ゾルゲは事前にスメドレーを知っていたようです。上海上陸後、まず接触したのがスメドレーだったと思われます。ゾルゲはスメドレーを通じて尾崎秀実を知るわけです。スメドレーと尾崎との出会いは不明ですが、同じ特派員同士、中国問題の専門家同士として取材を通じて面識を持ったものと想像できます。『彼女の働きぶりは全く申し分なかった』とゾルゲに言わしめるほどです。

アレックス:、第四部との連絡及び軍事情報の収集担当、ゾルゲの実質的上司。上陸半年で、上海警察に察知され帰国。アレックスの帰国後、ゾルゲがとって代わる。
ゼーバー・ワインガルデン:無線担当。
ジョーン:ポーランド人、ポーランド共産党員、赤軍第四部所属。1931年に上海に派遣され、連絡及び暗号と写真を担当。
パウル:赤軍第四部所属。ゾルゲが上海滞在中は軍事問題を担当し、ゾルゲが日本に去って後はその後任となる。
ミッシャ:白系ロシア人で、ゾルゲの前任者(ジム)の無線技術者。広東、上海でゾルゲと活動。

スメドレーを除いては、いずれも赤軍第四部からの派遣です。

<<外国人支援者>>
ハンブルグ:ドイツ人、女性。連絡、書類の保管。
ジェーコブ:アメリカ人、新聞記者。外国人から政治情報を収集。
マックス・クラウゼン:(詳しくは年譜参照)ドイツ人、赤軍第四部所属、1929年上海上陸。1931~2年ゾルゲと活動を供にし帰国。1935年ゾルゲの要請で東京で合流。
ゾルゲ自身はメンバーとは言わず、支援者としています。

 外国人メンバーと会うときは、たいていその家に行ったが、私の家を使ったこと度々あった。会見はきわめて頻繁に行われ、打ち合わせは普通電話によった。後にはメンバーの知人の家を使ったこともあった。時には料理店で夜食をとったり、バーやダンスホール会ったりしたこともあった。

<<日本人主要メンバー>>

 日本人のメンバーと会うときは、料理店、カフェーまたはスメドレーの家を用いた。日本人が上海の街をあちこち歩くのは危険だったので、私は日本人区域との境界にあるガーデン・ブリッジで待ち合わせた上、自動車に乗せたり、私自身が護衛したりして会見の場所へつれていって、彼らの安全を計った。何といってもスメドレーの家で会うのが一番気楽だったので、尾崎や川合も度々そこへ連れて行った。
あまり頻繁には会わないようにしたいと思って、少なくとも二週間の間隔をおいて会うように心がけた。(尾崎が上海を去って後)会見の場所を共同租界の目抜き通りに移して、たいてい南京路のカフェーか大きなホテルの食堂で会った。われわれは会っても書いたもののやりとりせず、ただ口頭で連絡した。

尾崎秀実:(詳しくは年譜参照)朝日新聞上海特派員。スメドレーの紹介。
 尾崎は私の最も大事な仕事仲間であった。われわれの間に結ばれた関係は、事務的にも私的にも全く申し分のないものであった。彼のもたらす情報はきわめて的確で、日本筋から得たものの中で一番良かったので、私はすぐさま彼と親しい友人関係を結んだ。
 は1932年上海を去ったが、それは私の活動にとっては大変な損失であった。彼と中国共産党の間には明らかに密接な関係があったが・・・当時私は何も知らなかった。』
『尾崎が中国共産党と密接な関係にあることが、もし私に判っていたら、私は彼とあんなに緊密な間柄になるのを躊躇したしたに違いない。多分尾崎を使う考えを捨てたことだろう。

 中国共産党との密接な関係とは、1931年、尾崎が『中国共産党駐上海政治顧問団の一員』となった事実を指していると思われます。尾崎と中国共産党との関係も朝日新聞記者としての活動の中から生まれたものと想像されます。

川合貞吉:上海通報社記者?
1930年、中国共産党王学文と日支闘争同盟を組織。
1931年、中国共産党員により尾崎を通じてゾルゲに紹介されグループに加盟。ゾルゲの下で北京、奉天で関東軍の動向を調査。
1932年、奉天で活動の後上海帰還。スメドレー、尾崎、中国人同志と北京、天津に諜報機関設立を協議。以後天津、大連にて活動。
水野 成:東亜同文書院学生(日本官憲の検挙により無期停学)、中国共産党青年団所属。
1930年、米国共産党員鬼頭銀一のグループに加わり南京政府の動向を調査。尾崎の紹介によりゾルゲグループに加入。
山上:尾崎の後任(朝日新聞記者?)。接触は少なかった模様(詳細不明)。
越寿雄:満州日々新聞上海支局長。山上の紹介。ゾルゲが上海を去る時、後任のパウルに託す。
鬼頭銀一:水野の供述を信じれば米国共産党員として上海で活動。
 鬼頭は私のグループのメンバーでもなく、また私といっしょに仕事をしたものでもないことを、私はここに断言する。
おそらく、検挙後にゾルゲ事件の関係者として現れた名前なのでしょう。『ここに断言する』と云うほど否定していることは、水野の証言の通りかもしれません。
 スメドレー、尾崎ともども川合、水野も中国共産党系の人間です。中国共産党の諜報網侮るべからず、でしょうか。さらに鬼頭が米国共産党員(コミンテルン?)であるとすれば、中国共産党、コミンテルン、赤軍第四部が入り乱れて諜報活動を行っていた様が浮かび上がってきます。

 ゾルゲグループの構成員をみると、広汎な人種、階層をカバーしているのが理解できます。後、東京においてドイツ大使館が情報収集の舞台であったように、ゾルゲ自身は特派員の身分を利用して、ドイツ社交界、総領事館(大使館は無かった)、独商人、軍事顧問団(フォン・グリーバー大佐の名が挙がっています)とドイツ関係は網羅され、新聞記者として、各国の特派員とも情報交流があったことが伺えます。
 地理的にも上海を基点に、ハルピン(満州)、北京、南京、広東に常駐者を置き、情報収集に当たっています。
 中国の政治、経済、軍事情報の収集にはスメドレー特に尾崎の協力が大きかったようです。当時ゾルゲは、尾崎が中国共産党と関係を持っていたことを知らなかったようですから、『コミュニズムに理解を示す朝日新聞の記者』として情報収集を行っていたのでしょう。『われわれの間に結ばれた関係は、事務的にも私的にも全く申し分のないものであ』り、尾崎の帰国は『私の活動にとっては大変な損失であった』と言うあたりに、志と友情で結ばれた両者の関係がうかがわれます。

 ゾルゲは尾崎の後を追うように、1933年横浜に上陸します。 (編集中)

タグ:ゾルゲ
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