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立松和平 光の雨 [日記(2010)]

光の雨 (新潮文庫)

光の雨 (新潮文庫)

  • 作者: 立松 和平
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2001/08
  • メディア: 文庫
 オウム真理教事件は、同時代を生きる作家にとって無視できない事件であり、昨年の話題作、村上春樹『1Q84』、高村薫『太陽を曳く馬』はこの事件が下敷きとなっています。『1Q84』は問題の大きさに圧倒されたのか『ボーイ ミーツ ガール』に終わってしまい、『太陽を曳く馬』は存在論の晦渋のなかに埋没してしまいました(独断です)。

 連合赤軍事件(1972年)もまた、同時代生きる人々には超えなければならない思想的事件でした。学生運動嵐が吹き荒れるキャンパスで青春を過ごした立松和平にとって、連合赤軍事件は相対化しなければならない命題だったのではないかと思われます。1993年に盗作事件が起き、1998年に全面改稿して完成させた経緯も、この小説が作家にとって重要な作品であったことをうかがわせます。

 『京浜安保共闘』を連想させる《革命共闘》の元軍事委員・玉井潔が、アパートの隣人である予備校生・阿南満也とその友人高取美奈に、当時の運動について語る構成をとっています。時は2030年の未来、玉井潔は80歳。死期を悟った玉井は自分の《革命運動》の記憶をこのふたりに託そうと語り始めます。


 革命をしたかった、ぼく個人ばかりではなく、全体が幸福になる世の中をつくりたかった。各人の持っている能力は百パーセント発揮でき、富の分配はあくまで公平で、職業の違いはあっても上下関係はない。・・・そんな社会をつくるための歴史的な第一歩として、人々を抑圧する社会体制を打ち破る革命をしなければならない。

そう考えて玉井潔は革命運動に身を投じます。一方、玉井の告白を聞く阿南満也は

 自分と同じ年頃の時、爺は革命だとか闘争だとかいう中にいたというようなことを口走っていたが、なんと甘ったるい時代にいたものだと満也は思う。学生はそんなことをいってはいけない。
大学生になったら適当に勉強して、あとは遊んで遊んで遊びまくり、その時期がきたならばできるだけいい会社にはいって後は静かにしていればいい。

と考える、2030年の常識的な予備校生です。

 作者は70年代の全共闘世代と50年後の若者世代を対置させ、若者世代が全共闘世代に引っ張られて傾斜してゆく構図を描きます。

 作家は、玉井が《革命パルチザン》(連合赤軍)の指導者や総括の名のもとに虐殺された《兵士》に乗り移る手法で、《山岳ベース(事件)》での凄惨なリンチ(総括)を克明に描きます。そのひとり谷口淳子に至っては、幽体離脱した谷口淳子の口を借りて、彼女自身のリンチや仲間のリンチを描きますが、描写がリアルであるほどにリンチする側と集団を支配した狂気が見えてきません。

 革命を教義とする宗教集団は(いっこうに進展しない)神の国の到来を待つ間に、《山岳ベース》という閉じられた環境で、《革命》の矛先を権力ではなく同じ信者に向けることとなります。この《内ゲバの論理》を当てはめたのが『光る雨』ではないかと思います。
 不思議に思うのは、彼らの革命信仰に至るモチベーションがいっさい省かれていることです。学園紛争の嵐が吹き荒れた1960年代後半から70年にかけては、確かに政治の季節でしたが、大半の学生は季節を季節として『やり過ごして』います。《革命パルチザン》が革命を選択した必然につては何も語られず、彼らは初めから革命の戦士として登場します。別の主題かもしれませんが、壮絶なリンチ事件まで引き起こした《革命》という観念と彼らの関わりを描かないことには、事件を相対化することはできないのではないでしょうか。

 小説は、ストーリーを綴り風景を描写することに止まらず、論理的に記すことのできない何ものかを、ストーリーに仮託して語ることだと(勝手に)考えます。論理的に語れるのであれば、小説という形を取りませんよね。ストーリーの登場人物が作者の意図を超えて勝手に動き出し、メタファーとして読者に作用するのが小説ではないかと思うのですが。
 不満は残りますが、全共闘世代として、連合赤軍事件を小説で《総括》しようとした作家の真摯な活動に敬意を表します。

 残念なことに、作者・立松和平氏は2010年2月、亡くなられました。


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