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お手軽 読書感想文作成法 (2) [日記(2010)]

 では実際に書いてみます。 (1)はこちら

小林多喜二 蟹工船

まず、読んだ、という実績を作ります(^^;)

1)蟹工船
『蟹工船』はカムチャツカの沖で蟹を獲り(北洋漁業)、それを缶詰に加工する蟹工船「博光丸」を舞台に、劣悪な環境と安い賃金で酷使される労働者が人間的な待遇を求めて指導者のもと団結し、ストライキに踏み切る姿を描いた、プロレタリア文学の代表作と言われています。

 小説は「おい地獄さ行ぐんだで!」という言葉で始まります。地獄とは蟹工船「博光丸」のことで、地獄とは

『漁夫の「穴」に、浜なすのような電気がついた。煙草の煙や人いきれで、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまま「糞壺」だった。区切られた寝床にゴロゴロしている人間が、蛆虫のようにうごめいて見えた。』

というその劣悪な環境と過酷な労働のことです。「博光丸」に乗る漁夫や雑夫は、彼らを取り締まる『監督』からは人間扱いされず、

『貴様等の一人、二人が何んだ。川崎一艘取られてみろ、たまったもんでないんだ。』

『川崎』とは蟹を獲る漁船のことです。人間より船の方が優先される世界です。その漁夫や雑夫達は、自分の土地を「他人」に追い立てられた農民や学生で、

『学生は十七、八人来ていた。六十円を前借りすることに決めて、汽車賃、宿料、毛布、布団、それに周旋料を取られて、結局船へ来たときには、一人七、八円の借金(!)になっていた。』

の様にほとんど欺されて集められた人々です。
 蟹工船の非人間的な側面をひとりで背負っているのが監督の浅川です。秩父丸という同僚の蟹工船からSOSの無電が入りますが、助けに行こうとする船長に浅川は言い放ちます。

『あんなものにかかわってみろ、一週間もフイになるんだ。冗談じゃない。一日でも遅れてみろ! それに秩父丸には勿体ない程の保険がつけてあるんだ。ボロ船だ、沈んだら、かえって得するんだ』

 そしてついに死者が出、漁夫や雑夫は身を守るために学生をリーダーにストライキに突入します。しかし『帝国海軍』によってストライキは潰され、首謀者の9人は連行されます。最後に彼らはこう言って小説は幕となります。

『「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビクビクしていないしな。皆、畜生! ッて気でいる」
「本当のことを云えば、そんな先きの成算なんて、どうでもいいんだ。――死ぬか、生きるか、だからな」
「ん、もう一回だ!」
 そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!』

 2回目のストライキがあったのか無かったのか、あったとすれば成功したのか失敗したのか作者は明らかにしていません。

 蟹工船の労働環境と監督の非道さは、現在では考えられませんが、作者は当時の北海道の労働環境を、

 内地では、労働者が「横平」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓されつくして、行詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」鉤爪をのばした。

 其処では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白い程無茶な「虐使」が出来た。然し、誰も、何んとも云えない事を、資本家はハッキリ呑み込んでいた。「国道開たく」「鉄道敷設」の土工部屋では、虱より無雑作に土方がタタき殺された。

 虐使に堪えられなくて逃亡する。それが捕まると、棒杭にしばりつけて置いて、馬の後足で蹴らせたり、裏庭で土佐犬に噛かみ殺させたりする。それを、しかも皆の目の前でやってみせるのだ。肋骨が胸の中で折れるボクッとこもった音をきいて、「人間でない」土方さえ思わず顔を抑えるものがいた。気絶をすれば、水をかけて生かし、それを何度も何度も繰りかえした。終しまいには風呂敷包みのように、土佐犬の強靱な首で振り廻わされて死ぬ。ぐったり広場の隅に投げ出されて、放って置かれてからも、身体の何処かが、ピクピクと動いていた。焼火箸をいきなり尻にあてることや、六角棒で腰が立たなくなる程なぐりつけることは「毎日」だった。

と書いています。ほんの80年前の小説です。

 『蟹工船』には固有名詞がほとんど出てきません。監督、漁夫、雑夫、火夫、学生とそれぞれの『階級』の呼称で呼ばれています。これは、方言を多用した会話文、突き放したような荒々しい文体とともに、小説にノンフィクションを読むような現実感をもたらしています。
ここからは、下調べの資料を駆使して『読書感想文』の字数、枚数稼ぎに徹します。

2)時代背景について
 蟹工船は1929年に発表されています。1929年というと世界恐慌(ブラックマンデー)の年です。アメリカのウォール街で株の暴落によって始まった恐慌は、世界を巻き込み、関東大震災、昭和金融恐慌(昭和恐慌)によって弱体化していた日本経済を直撃します。
 株の暴落により、都市部では多くの会社が倒産し就職できない学生や失業者があふれます。金解禁によって発生したデフレによって農作物は売れ行きが落ち価格が低下、冷害・凶作のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化します。
 こうした社会的混乱を背景に、労働者や小作農の立場に立つ政党が代表者を国会に送り、労働争議や小作争議が増え、政府は治安維持法、特別高等警察を全国に設置して社会主義運動、労働運動の取締りを強化します。

 農村、都市の荒廃を背景とした労働運動とそれを抑圧する権力の構図のなかで、労働者の立場に立ち、彼らの目で『蟹工船』は書かれたわけです。

3)小林多喜二について
 プロレタリア文学の代表的な作家・小説家です。秋田県大館市に生まれ、その後北海道・小樽に移住。小樽高等商業学校(現小樽商大)を卒業して北海道拓殖銀行(拓銀)へ勤めています。当時の基準から言えばエリートです。
 在学中から創作活動に取り組み、校友会誌の編集委員となって自らも作品を発表するなど、文学活動に積極的に行っています。また、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加をも始めています。
 
 また、父親が残した多額の借金により13才の頃より酌婦として飲み屋に売られていた、5歳年下の恋人田口タキに出会います。多喜二は友人からの借金でタキを身請けし、結婚ではなく家族という形で実家に引き取ったという逸話も残されています。タキは、小林多喜二の死の後、別の男性と結婚し2009年102歳で亡くなっています。

 1928年発生した、社会主義者、共産主義者への弾圧事件をもとにに『一九二八年三月十五日』を発表。作品中の特別高等警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となったと言われています。
 1929年には『蟹工船』を発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集めましたが、これらの活動がもとで拓銀を解雇されます。東京へ出た後、日本プロレタリア作家同盟の書記長となります。『蟹工船』の件で不敬罪の追起訴を受け、治安維持法違反で起訴、豊多摩刑務所に収監されたりします。1931年10月、非合法の日本共産党に入党し地下活動に入りますが、1933年2月特高警察によって逮捕され、拷問の末死亡するに至ります。

 小林多喜二というひとは、今の小樽商大を卒業して拓銀(破綻しましたが都市銀行です)に入った、当時としてはエリートです。不況とは云え、おそらく生活に困らなかったエリートが、何故当時としては非合法であった共産党に入党し、非合法活動の末逮捕、拷問死することになったのか。実家が裕福でなかったことも一因でしょうが、酌婦と出会って借金までして身請けし、家族として引き取ったというのですから、心の優しい人だったのでしょう。その心の優しさが、労働運動へ駆り立て、プロレタリア文学を書かせたのでしょう。

4)『蟹工船』ブームについて
 2008年、新潮文庫『蟹工船・党生活者』が古典としては異例の40万部が上半期で増刷され例年の100倍の勢いで売れたと報じられています。再脚光をあびたきっかけは、作者の没後75年にあたる2008年、新聞の文化面に掲載された小説家のとの対談だと言われています。
 このブームは、若い世代における非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景でもって説明がなされています。

 格差社会、ワーキング・プアと言われ、日比谷公園に派遣村ができる社会情勢の中で、『蟹工船』の漁夫や雑夫に弱者としての共感が生まれても不思議ではありません。
 しかしながら、『蟹工船』の漁夫や雑夫はストライキを打ち、自らの意志で人間性を回復しようとしました。『蟹工船』ブームを唱えた評論家や作家は、最後の一行『そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!』というフレーズにどのような『落としまえ』をつけたのでしょう。

以上

 あまり私見を入れず(でも入っている^^;)原文とnetの引用で書いて見ました。
これで、72行、スペース込み3473文字(スペースなし3450文字)で、400字詰め原稿用紙なら9枚弱です。中高生の宿題なら端折って半分ぐらいが適当ではないかと思います。


タグ:読書
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