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中野不二男 マレーの虎 ハリマオ伝説 [日記(2012)]

マレーの虎ハリマオ伝説 (文春文庫)
 『満州国演義7 雷の波濤』に少しだけですが「ハリマオ」の話が出てきます。日本軍の南方作戦の特務機関で、インド独立を支援するF機関に属し、マレー人を率い対英謀略に携わった日本人、谷豊の話です。谷は1942年にマラリヤで亡くなりますが、この谷は「マレーの虎 ハリマオ」としてマスコミに取り上げられ、戦意高揚のプロパガンダとして使われました。映画にもなり、当時の人気少年雑誌『少年倶楽部』に連載されて軍国少年の英雄となり、戦後も1960年にはTVドラマ『快傑ハリマオ』として放映されています。三橋美智也の主題歌とともに記憶されている方も多いと思います。

 満州の「五族協和」の夢は敗れましたが、インド独立を支援したF機関、ビルマ(ミャンマー)独立を支援した南機関など、大東亜共栄圏の南の部分はある程度成功をおさめています。このF機関に属して対英謀略に携わった「ハリマオ」とはいかなる人物なのか?。著者は、谷と接触のあった生存者を訪ねハリマオ伝説の足跡をたどります。

【ハリマオ谷豊の年譜】
1911年:福岡県筑紫郡日佐村五十川に生まれる
1912年:マレーシア・トレンガヌ州に移住
1916年:帰国し小学校に入学
1924年:マレーシアへ戻る
1931年:徴兵検査を受けるために帰国、日本ゴム工場に勤務
1932年:華僑の暴徒に襲われ妹シズコ死亡
1934年:一家帰国、単身マレーシアへ戻る
    マレー人を率い盗賊となる
1941年:(1月)昭和通商属詫、神本利男より日本軍への協力を依頼される
    (9月)陸軍大佐・藤原岩市F機関設立
    (12月)マレー作戦開始(真珠湾奇襲)
1942年:(2月)シンガポール陥落
    (3月)マラリヤのためシンガポールの病院で死亡(享年31歳)
    (4月)新聞各紙が谷豊の死を報じ「ハリマオ伝説」が始まる
1943年:(7月)映画『マライの虎』

 谷の諜報・謀略活動はわずか1年で、英軍の要塞建設の妨害や、橋に仕掛けられた爆弾の撤去が知られている程度で、決して多くありません。マレー作戦に大きな貢献があったわけでも無く、仲間のマレー人とともに現地の陸軍諜報機関と連携して諜報活動を行っただけです。谷がマラリヤに斃れたことを聞いたF機関の長、藤原岩市は、彼を判任官待遇の軍属(下士官)に引き上げ陸軍病院に入れています。また、谷が亡くなった後藤原は福岡に遺族を訪ね、遺品も返還されています。この厚遇を考えると、谷の働きはF機関の中で評価されていたことが伺われます。表に現れない功績があったのでしょうか。
 F機関は後に、タイに逃れていたインドの独立運動組織を支援しインド国民軍を創設しますから、谷が生きていればさらに活躍の場が広がったであろうと思われます。

 シンガポール陥落の翌3月、谷はマラリヤで亡くなります。4月には、新聞各紙が、谷を現地人を率いて祖国日本のために働いたという美談に仕立て上げて報道しています。ここから「ハリマオ伝説」が始まるわけです。

 1934年、帰国した家族と入れ替わるように谷はマレーシアに渡り、1941年、諜報に携わる軍属、神本利男によって見出されるまで7年の空白があります。この7年の間に谷はムスリムとなり、多くの部下を抱える盗賊団の首領となっています。日本は、日本人を両親に日本に生まれ日本で育ち日本語で意思疎通を図れないないと、共同体からはじき出されるという排他的な社会です。著者の取材によると、2歳でマレーシアに渡った谷にとって、日本は異郷だったのではないかと思われます。空白の7年の間に、彼はムスリムとなり3,000人(実質は百人程度)の部下を率いる匪賊の頭目となっています。裕福な華僑や英国人を襲う一種の義賊です。谷のこの変貌は、妹が華僑に殺され、当時の宗主国であった英国官憲は、その犯人逮捕に熱心でなかったことが原因であるとされています。著者は、谷を異邦人としてはじき出した日本の排他性が、このマレーに対する傾斜をもたらしたのではないかと想像しています。
 その谷が、何故日本軍に協力するようになったのか。著者は谷と接触のあった軍関係者から取材をしていますが、彼らの答えは一様に谷の中にある日本人としてのナショナリズムだと証言しています。
 谷が亡くなったあと、谷の仲間は遺体をイスラム式に白い布で包み、病院から担いで出たといいます(埋葬地は不明)。谷は日本人であるよりも、マレー人だったようです。

 本書で面白いのは、ハリマオとともにF機関です。後に岩畔機関、光機関として機関員500名を抱える大諜報組織に発展しますが、谷がいた当時は日本の商社に間借りするわずか5人の小さな組織だったようです。全員が陸軍中野学校の出身者で、飯を食う順番も、軍の階級より年齢が優先される、日本陸軍の固陋な体質からはかけ離れた自由な組織だっとようです。中野学校はスパイ養成学校ですから、卒業後は民間人に偽装して敵地に潜入する必要があり、在学中は平服に長髪、思想統制もなくかなり自由な空気だったということです。郷里の小学校では「異邦人」だった谷豊が、F機関の要請に答えられたのもそうしたことが原因かもしれません。

 谷が亡くなって約半世紀の後の取材ですから、物故者も多く、活動機関が1年と少ないハリマオを追うとなると相当の困難が伴います。しかも、その活動の地が外国ですからなおさらです。従って、劇的な発見は期待できませんが、どんどん薄れてゆく昭和という時代を朧気ながらも定着させた著者に、敬意を評します。

タグ:読書
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職務経歴書の事務

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
by 職務経歴書の事務 (2013-04-18 11:27) 

べっちゃん

駄文を読んでいただいて、ありがとうございます。
by べっちゃん (2013-04-19 20:23) 

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