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映画 最後の誘惑(1988米) (2) [日記(2013)]

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 現れた天使                    3人のマリアとベタニアのマルタ
 
 こちらの続きです。 
 
【最後の誘惑】
 磔にされて苦しむイエスのもとに、天使が現れます。天使はイエスを十字架から降ろし、ゴルゴダの丘で死ななかったイエスの物語が展開します。イエスは、かつて望んだ庶民としての生活を歩むこととなります。エエッ!?、絶句です。

 イエスは、マグダラのマリアと結婚し、ふたりの性交シーンも描かれます。これが、物議をかもしたわけです。マーティン・スコセッシは、非難を承知のうえでこうしたシーンを描いたわけです(もっとも、最後まで見ると、この非難は当たっていなのですが)。
 マリアは妊娠し、あっけなく死にます。神がマリアの命を奪ったのだ、私は見たと天使は言います。これも、神の意思なのでしょう。イエスは斧を持ち出し、神を呪うかように地面に叩きつけます。マリアを失って悲しむイエスに、天使は不思議な言葉をささやきます。

(天使は少女の姿をとって現れていますから女性ことばです
この世界に女は1人しかいない
多くの顔を持った女よ
ひとつが死ぬとひとつが生まれる
マグダラは死んでも ラザロの妹の(ベタニアの)マリアは生きている
彼女は違う顔のマグダラよ
彼女の胎内には、あなたの息子が宿っているわ

イエスはベタニアのマリアとマルタのもとに行き、マリアを妻にし多くの子をなします。
 ある日、マルタは壁に寄りかかっているイエスに呼びかけます。さぁ、暑いから家に入りましょう。マリアは何処へ言った?、街へ行ったから今日は夕方まで帰らない、さぁ家に入りましょう。ここで天使はイエスにささやきます、

この世の女はひとりよ

イエスはマルタに手を取られるようにして家に入ります。
 
マグダラの死 → この世界に女は1人しかいない →イエスはベタニアのマリアと結ばれる
マリアは家にいない → この世の女はひとりよ →イエスはマルタに誘われて家に入る

イエスはマルタと結ばれたのか?。

 この後イエスは、イエスの死と復活、イエスによる救済を説くサウロ(パウロ)に出会います。サウロによると、イエスはゴルゴダの丘で処刑され、3日後に復活し救世主(イエス・キリスト)となった云うのです。そして、サウロはイエス・キリストの啓示によってキリスト教徒となったと言います。これを聞いたイエスは、激しく否定します。当然ですね、当のイエスは天使によってゴルゴダの丘から救出され、マグダラのマリア、ベタニアのマリアを妻にし、多くの子供に囲まれて暮らしているのですから、今のオレは何者なんだ!というわけです。
 パラレルワールドです、スコセッシさんそう来るか、です。

 時は過ぎ、死の床にあるイエスのもとにペテロやユダたちが訪れます。イエスがマリアたちと安穏に暮らしている間、ユダは独立運動を戦っていたことがペテロによって明らかにされ、ユダは、イエスを臆病者、死を怖れて逃げ出したと激しく非難します。いや逃げ出したんじゃないんだよ、神が遣わした天使が現れて助けてくれたんだ、天使!?これかとユダは天使の正体を暴きます →悪魔です。
 悪魔は、十字架の上の瀕死のイエスにもとに現れ、イエスを誘惑したのです。「荒野の誘惑」では、悪魔を崇拝するのであれば、すべての地上の権力と富を与えるとイエスを誘惑し、失敗しています。悪魔は、イエスの死に際に現れ「荒野の誘惑」のリベンジを仕掛けたということですね。富や権力ではなく、イエスが憧れたユダヤの民としての「平凡な生活」で誘惑し、イエスは見事に「ひっかかった」のです。ユダに正体を見破られた悪魔は、シッポをまいて退散。すべてを悟ったイエスは、もう一度救世主にしてくれと神に祈り、・・・時空を越えてゴルゴダの十字架にトランスポートされます。
 イエスの最後に言葉は、 「神よ、何故私を見捨てるのですか」ではなく、「成就」、事なれり、です。この映画で、神がイエスを見捨てたというのは、文脈上おかしいですから、「やった!」ですね。

 人間は死の間際に自分の人生を走馬灯のように見ることがあるようですが(臨死体験)、イエスは、十字架の上で、一瞬のうちにもうひとつの人生、イエスが望んでいた「神に選ばれなかった」人生を生きたのです。『最後の誘惑』は、神の声を聞き、神に選ばれた運命を呪いつつ、神の王国、内なる精神の王国を夢見て磔刑にあった、「ナザレのイエス」への鎮魂歌、かもしれません。

 独断と偏見で映画『最後の誘惑』をまとめてみます。

 イエスの生まれたユダヤの地は、ローマの帝国の支配下にあり、イエスは反逆罪でユダヤ属州のローマの総督・ピラトゥスによって磔刑にされます。これは、聖書の上でも、歴史の上でも事実?です。この文脈で勝手に想像すると、イエスは、ユダヤをローマからから開放する運動に携わっていたとも言えます。それが、武力による非合法活動だったのか、数ある反ローマ運動の党派の指導者だったのか、その辺りは?です。イエスに洗礼を施したヨハネもそうした指導者のひとりだと思われます。そして数ある党派のひとつが、イエスが反ローマ運動の邪魔になるようなら殺せという司令を授けてユダを派遣します。ユダは、イエスの思想に共鳴し同志となります。というのが、イエスとユダの基本的な関係です。
 イエスは、ユダヤ独立運動の活動家ですが、このまま突っ走ると、ローマ軍に捕まっていずれ磔になるのではないかと、恐れています。理想というものは、それを抱く者に犠牲を強いるわけです。映画で描かれる、神の声を聞いた、神に選ばれたということと、自分を選んだ神を呪うという話は、この辺りの事情を指しています。

 「荒野の誘惑」は、ローマ軍に捕まって「転向」を迫られ、それに耐えたことの象徴的表現かもしれません。数々のイエスの奇蹟、これも後から生まれた「伝説」でしょう。ぶどう酒を振る舞ったり、同志を鼓舞して病気を直すことはあったりしたのかもしれません。ラザロの黄泉がえりはちょっと...。
 マグダラのマリアとの関係は、革命家と村娘の恋ですね、ごくありふれたエピソードです。イエスとマリアによって、イエスの血脈が連綿と続いていると考えても、何の不思議もありません。

 イエスのユダヤ独立運動は多くの人々を巻き込み、ローマとしても無視できない規模に膨れ上がります。この運動を、武力行使をともなう運動と考えても、シオニズムのような暴力を伴わない民族運動と考えてもいいでしょう。ローマの総督ピラトゥスとイエスの会話の中で、イエスは、ユダヤの王国は魂の王国だと言っています。 
 ローマ軍のイエス一派への弾圧は厳しくなり、「イエスと12人の仲間」はアジトを転々とします。ここでイエスの考えた9回の裏逆転ホームランが、イエス自身がローマ軍に捕まって殺されることです。すなわち、イエスを革命の生贄として殺すことによって、イエスは運動の象徴=神となり、窮地に追い詰められた組織を活性化しようと考えたわけです。自首したのでは、自らの運動の否定となりますから、殺される必要があります。イエスは、運動の本質をもっとも理解しているユダに、オマエおれの居所をローマ軍に通報しろ、というわけです。
 ユダは裏切りという汚れ役を引き受け、イエスは死んで伝説となり、ふたりは運動の舞台から消えます。

 同じような映画にメル・ギブソンの『パッション』があります。『パッション』は、タイトル通りイエスの受難中心の話しで、聖書の映像化に過ぎずもうひとつです。但し、マグダラのマリアを演じるのがモニカ・ベルッチで、期待のシーンはありませんが楽しめます(笑。
 ヨハネが登場したり、ラザロが生き返ったり、イエスが数々の奇蹟を行ったり、途中冗長でダレますが、イエスを普通の人間として描き、裏切り者のユダをユダヤ独立運動の活動家として捉えたあたりは、面白いです。
  マーティン・スコセッシが遠藤周作の『沈黙』を映画化するという発表があって、もう数年たちます。やっと来年から撮影が開始されるようで、期待できそうです。
 
監督:マーティン・スコセッシ
原作:ニコス・カザンザキス
出演:ウィレム・デフォー ハーヴェイ・カイテル バーバラ・ハーシー 

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