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kindleで読書 織田作之助 土曜夫人 [日記(2014)]

土曜夫人土曜夫人 (青空文庫POD(ポケット版))
 昭和21年(1946)8/31~12/6まで「東京読売新聞」に連載された、織田作之助33歳の作品です。
 この年織田作は、戦後の開放感に酔ったかのように『世相』『競馬』などの名作を次々に発表し、『夜の構図』『土曜夫人』の連載を開始しています。東京文壇に挑戦するかのような評論『可能性の文学』を遺書として、翌昭和22年1月には亡くなっています。喀血のため85回で連載を撃ち切ったこの『土曜夫人』が、絶筆かもしれません。

 織田作は『可能性の文学』で、志賀直哉を頂点とする既成文壇と、冒険をしないチマチマとした権威主義「文学」を激しく批判します。坂田三吉の奇手を例に引き、文学は定石を破って人間存在の可能性を描くことだと結論付けます。さすれば、作家はこの『土曜夫人』で、定石破りの「坂田の端の歩突き」を駆使し、理想とした「可能性の文学」を目指したはずです。

 昭和21年の京都の繁華街を舞台に、ダンサー陽子、実業家をパトロンに持ち待合を経営する貴子、その娘で家出したチマ子、カメラマンの野崎、ジゴロ京吉などが京都河原町の場末に蠢き、蠢くことが唯一の自己主張であるという風俗小説です。
 織田作の小説には、『青春の逆説』『俗臭』など自身の出自や体験に寄りかかった作品と、物語性に比重を置いた『夫婦善哉』『わが町』『それでも私は行く』があります(と思います)。『土曜夫人』は、前者を切り捨て作家が創造した登場人物より「物語」を目指した小説だと思われます。

キャバレエ十番館のホールの階段に立った木崎のライカが狙う「ホール風景」の夜のポーズのシャッターが切られた途端に、倒れたダンサー茉莉!  青酸加里! 京吉!  東山のアパート清閑荘では、ヒロポン中毒のアコーディオン弾き坂野の細君が逃げ、闇の女を装う兵児帯のチマ子が木崎のライカを奪って逃げた。
 
 陽子から始まる登場人物の連環はこうなります。陽子は東京の代議士の娘で、父親に政治資金を提供する関西の新興成金章三から妻に望まれ、京都に逃げてダンサーとなります。
 省三は待合を経営する貴子のパトロンであり、貴子の娘チマ子は陽子の勤めるダンスホールを撮影にきた野崎のライカを盗み、陽子はダンスホールの常連で侯爵の息子春隆に貴子の待合に呼び出され章三と鉢合わせ。待合を逃げ出した陽子は娼婦と間違われて留置所に入り、ライカを盗んで捕まったチマ子と出会います。
 ダンスホールを撮影に来ていた野崎の前で、京吉と踊っていた茉莉が青酸加里で亡くなり、京吉は貴子の若い情人で、密かに陽子を慕っている様子。留置所でチマ子に頼まれた陽子は、ライカの持ち主である野崎を訪ねます。

 というぐあいに、人物と人物がつながり次々と連環を作りながら物語は進行します。この辺りは、荒削りなドストエフスキーのようです。では、イワンやアリョーシャのようなに思索する人物が登場するかというとそうではなく、『土曜夫人』の彼、彼女は、それこそ時代と世相を皮膚呼吸するようにしたたかです。
 たとえば、

貧しい家に生れて早くから水商売の女になった貴子は、美貌と肉体という女の二つの条件を極度に利用することを、きびしい世相に生きぬいて行く唯一の道だと考えていた。世の封建的な親達が娘の配偶者の条件に、家柄、財産、学歴を考えるのとほとんど同じ自己保存の本能から、貴子は男の条件をパトロンとしての資格で考える女だった。

 その彼、彼女が蠢いて起承転結のあるドラマを演じるのかというとさにあらず。起承転結のあるドラマこそが権威主義の文学だと言わんばかりに、織田作は「坂田(三吉)の端の歩突き」のように登場人物を野放しに歩かせます。

 たとえば、登場人物たちが喫茶店セントルイスに集います。各人は、自分が連環のどの節にいるのかは知りません、かつ面識もありません。

その時セントルイスにいたひと達は、まるで申し合わせたように、誰かを待っていた。
マダムの夏子さえも、待っていた。京吉を待っていた。
先斗町の千代若も旦那を待っていた。
・・・カラ子が祇園荘から尾行して来たスリも、誰かを待っているのか、いらいらしていた。 
そのカラ子は勿論京吉を待ちこがれていた。早く来てくれぬと、スリが出てしまう。
カラ子は何度も表へ出て、京吉の来そうな方へ遠い視線を送っていた。が、来ない。
「遅いなア。どないしたンやろか」
 再びセントルイスへ戻って来たカラ子の心配そうな声をきいた時、一人の若い女がふっと顔を上げた。坂野の細君の芳子であった。
「遅い。本当に遅い。銀ちゃんどうしたんだろう」

夏子は芦屋の歯科医の有閑マダム、千代若は歯科医の元情人、靴磨きのカラ子は京吉の財布を掏ったスリを追ってセントルイスにたどりつき、さらに、野崎のアパートの住人アコーディオン弾き坂野の出奔した妻芳子は、京吉の麻雀仲間銀ちゃんを待っているというシーンです。登場人物を喫茶店セントルイスに集め、それぞれの人物がお互いに繋がっていると状況を俯瞰すると作家の視点は斬新です。
 そしてこのシーンは「偶然」によって引き起こされたのです。以下は、京吉が陽子とニアミスするシーンです、

「あ、陽子だ!」 と思いがけぬ偶然に足をすくわれていたが、しかし・・・偶然は、陽子の視線を京吉から外してしまった。  そして、更に偶然といえば——偶然というものは続きだすと、切りがないものだから——京吉が陽子の傍へ行こうとした途端、 「おい、君!」  と、交番所の巡査に呼び停められた。

「偶然」によって人々は連環し離合集散してゆくという手法、これも「坂田の端の歩突き」なのでしょうか。

 そしてスリに名前が与えられます。銀行の下級行員北山です。北山は娼婦を追って大阪から京都へ来て財布を掏られて困っているところ、カラ子に靴磨きをさせている京吉のポケットから出来心で財布を掏ります。セントルイスから出た北山を追ってカラ子は大阪・中の島にたどり着き、北山は恐ろしくなって財布を棄てます。なんと囚人の脱走事件と出くわします。おまけにこの脱走囚の中にチマ子の実父銀造がいるのですから、いくら「偶然」の好きな織田作でも、ちとやり過ぎではないかと思います。
 銀造が北山の捨てた京吉の財布を拾い・・・。さらに新しい主人公が登場します!。

さて、新しい登場人物が現れたのを機会に、作者自身をも登場させて、ここで二、三註釈をはさむことにしたい。
 この物語の主人公は、ダンサー陽子であろうか、カメラマンの木崎であろうか、それとも田村のマダム貴子であろうか、(と全員を並べ)・・・(全員が)何じ世相がうんだ風変りな人物である以上、主人公たり得ることを要求する権利を持っているのだ。
・・・そして、このことは結局、偶然というものの可能性を追求することによって、世相を泛び上らせようという作者の試みのしからしめるところである

 「可能性」という言葉が登場しています。登場人物十数人が時間にしてわずか一昼夜の間に織りなす「偶然」の物語です。
 織田作之助は12/5喀血、『土曜夫人』は12/6、85回をもって打ち切りとなります。従って、小説としてはシリキレトンボ。現存の『土曜夫人』で織田作が構想した小説をあれこれあげつらうわけにはいきませんが、荒削でなところはあるものの、上記の手法と実験は評価していいのではないかと思います、第一面白かったです。これが「可能性の文学」であるかどうかは別にしてです。

 ちなみに「土曜夫人」とは、

 さまざまな女が、いかにも女の都の京都らしく、あるいは一夜妻の、そして土曜夫人として週末の一夜を明かすと、日曜日の朝の河原町通りは、昨夜の男が子供にせがまれていそいそと玩具のジープを買うのだ。その幸福な顔!

「一夜妻」という意味らしいです。

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