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岸田秀(聞き手 三浦雅士) 多神教 vs 一神教 [日記(2016)]

一神教 VS 多神教 (朝日文庫)
 心理学者・岸田秀の考えを評論家の三浦雅士が「聞く」というスタイルの対談集です。

 岸田の心理学者、精神分析学者としての人間理解は、「人間は本能の壊れた動物であって、本能に代わる行動指針として自我を作った」ということが基本になっています。人間社会の制度、文化というものは、この「自我」という幻想によって組み立てられているという理解です。
 幻想というあやふやな剥き出しの「自我」は非常に不安定なもので、支えというか存在の裏付けを必要とし、自我の拠り所として「宗教」が生まれたというのです。死というものを例に、

 自我というのは自分だけのもので、しかも他から切り離されていえ孤立している・・・個人が死に、自我が滅びるとということは・・・絶対的な喪失です。・・・死の恐怖というのは堪え難い恐怖ですから、人間は、その恐怖を鎮めるために、実は自我というのは切り離されてはいないんだ、孤立してはいないんだ、神につながっているんだ、という信仰を必要としているのです。

ということになります。「神」をイデオロギーに置き換えれば、「共産主義」も「民主主義」も(そして「天皇制」も)宗教であり、イデオロギーに凝り固まった原理主義者(集団)も信者だと言えます。「民主主義」「自由」という大義名分のもとに、アジアや中東に出かけるアメリカも立派な原理主義集団というわけです。北朝鮮もイスラム国も同じです。これはまた、

 何がどうなっているのか考えても分からないとき、考えることをやめ、事態を単純化して何か絶対的なものをひとつ見つけ、これさえ守ればいいんだ、救われるんだ決め込んで安心しようする・・・思考停止の一症状

という見方が生まれてきます。さらに、不安や恐怖が強ければ強いほど自我も強くなり強い神を必要とするというわけです。
 そして、ある集団が一方の集団を差別し追い詰めると、差別された集団は恐怖を共有し、集団としての自我は、内向きには共同幻想としてしての「唯一絶対の神」を作り上げます。外向きには、唯一絶対神を成立させたものへの敵意が生まれます。これが一神教成立の過程だというのが岸田説です。本書のエッセンスはほぼこれに尽きると思われます。

 ユダヤ教もイスラム教もキリスト教も、迫害を受けた被差別民族の宗教だというのです。イスラム教、キリスト教は、元をたどれば被差別民族であるユダヤ民族の宗教・ユダヤ教に行き着きます。ユダヤ民族は理解できますがキリスト教は?(イスラム教は砂漠に追いやられたアラブ民族が生んだ宗教)。ここでウルトラCのアクロバットが登場します。
 キリスト教はローマ帝国がヨーロッパ人に押し付けた宗教ですが、ヨーロッパ人=白人にはキリスト教を受け入れる素地があったというのです。つまり白人種は、古代において被差別民族だったというものです。エッと思います。人類の起源はアフリカですから、当然黒人。黒人のなかのアルビノが差別されアフリカから北へ北へと追いやられ、現在のヨーロッパ人が生まれたというのです。黒人から差別迫害されたヨーロッパ人には、キリスト教を受け入れる素地があったというのです。

 日本には「やおよろずの神々」がいます。仏教では、神=仏になるのでしょうが、阿弥陀、大日、薬師などこれも神は多数存在します。ギリシア神話にもゼウスを始め多くの神が登場します。多神教です。一方、キリスト教の神は唯一Godだけで(キリストは神の子)、マリアやパウロは聖人であって神ではありません。世界では多神教が普通で、一神教はユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つだけだそうです。

 では、何故「多神教 vs 一神教」かというと、唯一絶対神が二つあっては困るわけで、どちらかが滅びるまでの戦いが起きます。十字軍の時代から、唯一絶対神を戴くイスラム教とキリスト教の争いというのが、この世界に起きている不幸の構図です。

 正義はひとつしかないと信じたい人・・・これもはた迷惑ですね。・・・実際問題として正義はいろいろあるわけで、それをひとつだとされたんじゃ、それ以外の正義を信じている人は窒息してしまいます。要するに、一神教は、本人は安定して気分がいいが、はた迷惑だということですよ。

 「はた迷惑」、これに尽きます。面白いです。

タグ:読書
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