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川本三郎 荷風と東京 『断腸亭日乗』私註 [日記(2016)]

荷風と東京(上) 『断腸亭日常』私註 (岩波現代文庫)荷風と東京(下) 『断腸亭日常』私註 (岩波現代文庫)
 本書は 『荷風と東京』とあるように、永井荷風を大正、昭和の東京という風景のなかで捉えた作家論、評論です。”1.『病よ余の生涯唯慰安を願うのみ』ー「老い」の見立て”から始まって”38.田園に死す”まで38章全600ページに及ぶ荷風論です

4.山の手の子の下町住まい

 荷風は、明治12年東京市小石川区-現文教に生まれ、父親は欧米留学をした政府の高級官僚、自身もアメリカ、フランスに留学し原書で小説を読み、慶應義塾の教授まで務めたという当時第一級の知識人です。麻布の偏奇館という洋館に住み、食事は銀座のレストラン、カメラ片手に散歩するという”ハイカラ”、”モダン”なスタイルを愛する一方で、三味線、清元、常磐津を習い、浅草、玉の井を徘徊する江戸趣味濃厚な文人です。荷風は実生活では近代、精神世界では江戸趣味という二重性を持った人物です。著者はこの精神構造を、「山の手の子の下町住まい」だと言います。

大正2年(34歳):父久一郎死去、ヨネと離婚
大正3年(35歳) :芸妓八重次と結婚
大正4年(36歳) :八重次家出、荷風築地1丁目に仮寓、新橋芸妓を身請け
大正5年(37歳) :浅草柳橋に移る、慶応義塾辞職、大久保来青閣に帰り庭内に一室を構え「断腸亭」と名付ける、『腕くらべ』連載開始、浅草旅籠町に新居購入、神楽坂芸者を身請け
大正6年(38歳):富士見町に芸妓いく代を囲う、木挽町に移る(無用庵)
大正7年(39歳) :来青閣売却、築地2丁目に家を購入、『腕くらべ』刊行
大正9年(41歳):麻布(港区)に「偏奇館」完成、白鳩銀子、渡辺美代と情交 (新潮社、日本文学全集、永井荷風集年譜)

 本宅とは別に築地に家を借りたのは、消化器系が弱くかかり付けの医者が近いこと、荷風がたずさわった「三田文学」「文明」の編集室に近いという理由があり、三味線を習い江戸趣味に耽溺しますが、早い話が新橋の花柳街に近く遊びに便利だったためでしょう。

築地はまた銀座にも近い。荷風は花柳界で江戸趣味を満足させながら、他方ではモダン都市銀座も享受する。江戸趣味、陋巷趣味の荷風は、同時に誰よりもモダニストである。(p87)

 余談ですが、父親が死んで遺産を相続し、それに加え慶應義塾の教授として月150円の収入があり、原稿料もあったはずですから優雅に暮らせたようです。大正7年には来青閣を2万3千円で売却していますからさらに裕福になっています。荷風の江戸趣味、女遊びにはこうした経済的裏付けがあったからです。さらに昭和初年よりの円本ブームで多額の印税(総額5万円)が入り、荷風の道楽はさらに磨き?がかかるようになります。

5 下町のうっとうしさ

 大正7年に自宅を売り築地に家を購入しますが、大正9年には「偏奇館」を建て山手に戻っています。

いざ下町に来て住めば、隣近所の蓄音機騒がしく、コレラとチブスの流行には隣家と壁一重の起き臥し不気味にて、且つは近年町内に軍人まがひの青年団といふもの出来て事ある毎に日の丸の旗出せといふが煩わしく、再び山手の蜩鳴く木立なつかしく思い返されて引き移りし・・・(隠居のこごと、大正11年)

 下町に憧れて住んではみたものの、下町の環境濃厚な人間関係に嫌気がさします。下町は、そこで暮らすのではなく、「旅人」として通りすぎ「見る」ぶんには風情があっていいが、住むには「うっとうしい」というわけです。荷風は結局は山の手の人であり、実生活の基盤をヒグラシの鳴く高台の洋館「偏奇館」に置き、夜な夜な玉の井の娼館、銀座のカフェ、浅草の演芸館の楽屋を訪れ、また「偏奇館」に帰るのです。この傍観者荷風は、女色においても、芸者、女給、私娼など玄人に限定し、濃厚な人間関係の生まれる当事者とはなりません。

玄人の女が相手だから当然そこには近代的な意味の恋愛はあり得ない。あるのは恋愛ではなく好色、色恋沙汰である。にもかかわらず荷風の作品は決して放恣な好色文学ではない。・・・モラリストの愛欲文学、ストイックな好色小説である。

 『濹東綺譚』で、お雪が外で客と会っている(客をとっている)間娼館の留守番をするという「わたくし」、妻同然のお千代が娼婦であることを何の抵抗もなく受け入れているひかげの花』の重吉という存在は、この荷風の「傍観者」が生み出した男たちです。
 
 傍観者、旅人、ディレッタント荷風の話です。

タグ:読書
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