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司馬遼太郎 菜の花の沖 (1) [日記(2018)]

新装版 菜の花の沖 (1) (文春文庫) 菜の花の沖(一) (文春文庫)

 明治維新(という革命)の背景には、江戸社会における
 ・耕作面積と生産性の両面における農業の発展
 ・物流システムの発展
 ・全国統一市場の形成、商業・金融の発展
 ・富裕な商人層の台頭
 ・手工業の発展
など経済的基盤が大きく関わっているようです。海運業者、商人である高田屋嘉兵衛を主人公とした『菜の花の沖』では、その辺りが興味の中心となります。

若衆宿
 高田屋嘉兵衛の故郷は淡路島です。南方系の習俗を残すこの地では、男子は15歳になると「若衆宿」に入るしきたりがあります。西郷隆盛は、この若衆宿である加治屋町の郷中(二才組)とともに幕末~西南戦争を戦ったはなしは有名です。若衆宿は、(特に西日本の)民衆精神文化を形成する重要な因子ということになっていて、 司馬龍太郎の作品には時おり顔を出します。男子は13~4歳から18~20歳頃まで若衆宿に入り、年上の若者から指導を受けて村落共同体の一員となります。若衆組は大人社会に出てゆくために若者を教育する学校のようなもで、祭礼という神事、火事・海難といった事故においては、オトナと同様の発言権と時には大人の組織を凌ぐ権威と権力を持っていたそうです。

 貧農に生まれた嘉兵衛は、11歳から生まれた都志本村を離れ隣の新在家の叔父の家で働いていたのですが、15歳になり新在家の若衆宿に入らず出身の本村の若衆宿に入ります。共同体は内に結束を求めるぶん排他的になります。本村の若衆宿の嘉兵衛が新在家で働いているわけですから、嘉兵衛はよそ者として新在家の若衆から手ひどイジメを受けます。嘉兵衛は網元の娘(後の妻)おふさに通ったと疑われ、「イリコ」を盗んだと冤罪を背負わされ命を狙われるまでになります。

妻問い婚
 「妻問い婚」の話になります。娘のもとに若者が通ってきて妊ると結婚が成立するという、古代から続く風習です。娘のもとには複数の若者が通いますから子供の父親は特定できませんが、この場合父親の指名権は娘にあります。指名された父親は、子供が自分の血縁であるという保証はないわけですが、娘の指名に逆らうことはできず、自分の子として育てる義務を負います。これは、妻問い婚によって(すべての結婚がそうですが)生まれた子供は共同体の子供であるという認識があり、これが共同体を結束させる要ともなっていたと想像されます。同じようにムラの女性も(誰が通ってもよいという意味で)ムラのものであり、他のムラの若者が通うことは禁忌です。本村の嘉兵衛が新在家のおふさに通えば、共同体の結束を乱すということで、激しい排除の対象となったわけです。

 嘉兵衛とおふさの場合は、口をきいたこともなく当然通うことも無いゆえ子が生まれたわけではありません。嘉兵衛がおふさに通ったという噂を流すことで嘉兵衛を共同体から排除しようとしたわけです。ありもしない事をあったと言われることで、ふたりは急速に近づき、嘉兵衛はおふさに「通う」ことになります。司馬遼太郎の小説には魅力的な女性が登場し多くの恋も描かれますが、嘉兵衛とおふさの恋はひと味違います。
 「若衆宿」「妻問い婚」などという古俗が活かされていることも、司馬遼太郎の小説の魅力のひとつです。

いじめ
 作者は、現在の「いじめ」も元をたどれば若衆宿の古俗にいたるのではないかと想像します。

 私は、ふるくから、日本の精神文化の基礎の一つにーー南方諸島の固有文化であるーー若衆宿の制度と伝統がよこたわっていると考えてきた。その基層は東日本に薄く、西日本に濃かった。制度としては大正期にほろびるが、意識としてはいまも生きているとおもっている。戦前の陸軍の権力・権能構造として二本だての関係にあった陸軍省と参謀本部の意識構造や将官と青年将校の関係、また陸軍の内務班の制度、さらには戦後の会社幹部と労働組合の関係、また既存権威構造と左翼運動のかかわり方、あるいは一部私立大学における大学当局と体育部の関係は、ふつうの社会科学の方法では、この社会の共通の意識のしんまでは解けないないのではないかと思っている。(第一巻あとがき)

 戦後の話はさておき、ニニ六事件を始めとする青年将校を抑えられなかった将官たちや、陸軍内務班の初年兵いじめなどは、何やらムラ社会と若衆組のにおいがしないでもありません。それより、

「新在家の者には、新在家のにおいがある」
とよくいわれる。においとは、面差し、物腰、あるいは物言いなどの微かな感じをいうのだが、新在家は新在家でそうゆうものを共有しているというのである。
それを共有していない嘉兵衛のような者は、いかがわしい。

こちらの方が気分としてしてシックリきます。「におい」を共有できない者をいじめることによって共同体から排除するというわけです。

樽廻船
 淡路におれなくなった嘉兵衛は「村抜け」し、兵庫で回船問屋を営む叔父の堺屋喜兵衛を頼ります。商品経済が発展する17,8世紀は、北前船、菱垣廻船・樽廻船の海運の時代でもあります。海運は、17世紀に上方の物資を消費都市江戸に運ぶ菱垣廻船、秋田山県新潟の米を運ぶ北前船によって航路が開かれたことで発達します。米の他、瀬戸内の塩、薩摩の砂糖、阿波の藍、上方の古着などが回船によって日本各地に運ばれ、商品経済が活発となります。商品経済の発展は、米を中心とする幕府諸藩の相対的な地位を低下させ、換金作物の増産と流通に力を入れた雄藩の台頭を準備し明治維新を待つことになります。
 樽の出現によって酒、醤油、油、酢などの液体の輸送が容易になり、樽廻船は灘の酒を江戸に運ぶ酒専用の菱垣廻船です。嘉兵衛は堺屋の持ち船「宝喜丸」に乗って江戸に酒を運び、海運と人生に船出します。

タグ:読書
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