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高橋たか子 高橋和巳という人 二十五年の後に(1997河出書房新社) [日記(2018)]

高橋和巳という人―二十五年の後に

 娘さんの書いた、詩人、小説家・阪田寛夫の評伝『枕詞はサッちゃん』を読みました。面白くなくはなかったのですが、書き手がアマチュアなので、今ひとつツッコミが足りない。プロは身内をどう書くのか興味があったので、小説家・高橋たか子が夫で小説家の高橋和巳を25年経って回想したものを読んでみました。高橋和巳?、誰だ?、今では読む人も少ない作家ですが、私の学生時代には教祖と言われたカリスマでした。

【普通ではない、生活人】
 普段着のまま、下駄ばきで、ふらっと散歩に出ていき、一晩も二晩も帰ってこなかった。帰ってくると、私は「あ」と言っただけであった。

何処をほっつき歩いていたのか、ふらっと出ていったようにふらっと帰ってくる和巳に、「あ」と言うだけだけ、あるいは「あ」という顔をするだけの私に、「腹、減った」と和巳は言い、それだけのやりとりで、普段の生活が何の支障もなく再開されていった。
 普通の生活人ではあったが、二人とも冥界の住人だったから、こんなふうだったのだろう。和巳が冥界を一晩か二晩か散歩して帰ってきたような感じで、私は受け取っていた。

 かなり変わった夫婦と言えます。ふらっと外出し、「冥界」に降りて行って一晩も二晩も帰ってこないというのです。また、「晩御飯に帰ってきてね」というたか子の頼みは必ず裏切られます。つまり、現実の時間という感覚が欠如しているようで、

時間というものは、言うまでもなく、現実社会の進行の目盛として、仮な約束として、あるだけのものであるが、その目盛の刻まれているのは現実社会の表層である。そして、そんな表層の奥へ入ってしまうと、つまり、人が自身の深みへ沈みこんでしまうと、時間なんてものは存在しない。・・・その無時間の深みへ、和巳はたえず潜入していく人であった。

 誰だって物事に夢中になれば時間を忘れます。自身の内面に沈みこみ、現実を忘れ時間を喪失したということのようで、高橋和巳という人は、よほどこの意識の「深み」にはまり込み易い人だったようです。

【反・私小説】
 常に、私は、和巳が私小説に反する言葉を口にするのを耳にしていた。小説というものは、作者が実生活で体験したことを書くものではない、という確固たる立場である。・・・では、どのように小説を発想したのか。
 そばに生きていたのでわたしのよくわかっていることは、たびたび私がこの著で使っている言葉である「意識の深み」、そこに彼は潜入し、そこに湧きでてくるものを、描いたー。


 またも「意識の深み」。この「意識の深み」とは何なんでしょう。高橋たか子によると、「意識」は、浅いところに人の意識可能な個人的記憶があり、深いところには意識不可能な人類始まって以来の記憶(集合的無意識?)のある二層構造で出来上がっているのだと言います。人類がアフリカを出て20万年の記憶が大脳皮質の何処かに蓄えられている、その深層(意識の深み)に潜入しそこから紡ぎだしたのが高橋和巳の小説だというのです。分かったような分からない話ですが、この人類始まって以来の記憶がある(私にも?)という考えは魅力的です。

 つまるところ、高橋たか子は「高橋和巳という人」を描いたのではなく「高橋たか子という人」を描いたように思われます。

タグ:読書
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