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司馬遼太郎 翔ぶが如く(2) [日記(2018)]

新装版 翔ぶが如く (3) (文春文庫) 翔ぶが如く(四) (文春文庫)

続きです。
 征韓論における西郷と大久保の確執と駆け引き、岩倉の裏切りは本書前半、最大のドラマです。明治4年7/14に廃藩置県を断行し、木戸、大久保は11/12に岩倉使節団として欧米視察に出かけます。武士階級から土地と人民を取り上げるという大改革をやっておいて、後はよろしくというわけです。士族の不満を抑えてくれという申し送りをされ、残された西郷たち留守内閣はたまりません。岩倉一行の帰国は2年後の明治6年夏、その間全国の士族の不満は募り、抑えきれない西郷は「征韓」によって反政府エネルギーを開放しようとします。

 新政府首班である三条実美は西郷の圧力に屈し、岩倉使節団が帰国して後決定するという条件を付けて天皇の内諾を得てしまいます。岩倉使節団は、明治6年5月にまず大久保が帰国、7月に木戸、9月に岩倉が帰国しますが、いずれも西郷との衝突を避けるように静養と称して廟議に参加しようとはせず、征韓論は棚さらしとなります。
 10月14日廟議が開かれます。
 太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視を議長に
 征韓論賛成派は、西郷隆盛(薩摩)、副島種臣(佐賀)、大木喬任 (中立?佐賀)、江藤新平 (佐賀)、板垣退助(土佐)、後藤象二郎(土佐)
 征韓論反対派は、大久保利通(薩摩)、大隈重信(佐賀)に三条、岩倉。
 @木戸孝允(長州)は、征韓論を西郷と大久保の私闘と考え病欠。(参議ではないですが、渡韓となれば陸軍を率いるはずの山県有朋は、出張と称して東京を離れる有様)
 賛成派が多いですが、この時代多数決原理はなかったようです。勅許をたてに渡(征)韓を迫る西郷と、国家財政の破綻を理由にこれに反対する大久保の一騎打ち。この日は結論が出ず翌日に持ち越されます。
 15日は廟議は、自分がいると論議しにくかろうと西郷は欠席。決着を見ず三条と岩倉の裁量によって西郷の渡(征)韓が決定します。岩倉は裏切ったことになります。問題はここから。この決定の後、西郷と大久保の間で板挟みとなった三条は心労から人事不省に陥り、天皇への奏上(勅裁)が出来なくなり、征韓論はまたも棚晒。

 この間、大久保と伊藤博文は水面下で工作し、岩倉を太政大臣代理とする勅許を得て岩倉を動かし廟議で決まった征韓をひっくり返します。23日、西郷、副島、江藤、板垣は岩倉を訪ね、天皇への奏上を迫りますが、岩倉は征韓否定の奏上をする旨を4人に伝え、征韓論は潰えます。
 武力と権謀で幕府を倒した西郷は、征韓論ではこれを一切用いません。 陸軍大将近衛都督の西郷であれば、桐野利秋が握る近衛軍を動かして太政官を乗っ取るクーデターも、策謀で三条、岩倉を味方に引き入れることも容易だった筈です。西郷は、自分が作った新政府は条理で動く政体であることを信じ、幕府に使った同じ手を使わなかった(使いたくなかった)のでしょう。武力と詐略を使えば、何のための維新であったのかということです。

 23日に西郷は東京を引き払い鹿児島に帰ります。西郷が東京にとどまると、西郷を担いで事を起こそうとする輩が現れ、西郷は東京を離れます。面白いのは、帰郷にあたって大久保を訪ねていることです。作者によると

 西郷ーあとのことは、よろしゅう頼ンみやげ申す
 大久保ーそれは吉之助どん、オイの知ったこつか。いっでんこいじゃ(いつでもこいじゃ)。いまは ちゅう大事なときにお前さァ、逃げなさる。後始末はオイせなならん。もう知ったコツか!

 ということになります。大久保は、事が紛糾するとギリギリの段階で投げ出す西郷の性癖を嘆いたわけです。伊藤博文がその場にいたようですから、たぶんそうしたやり取りは事実あったのでしょう。これが西郷大久保の別れで、以後会うことはありません。西郷の下野によって、桐野利秋、篠原国幹、別府晋介を始め多くの薩摩系兵士、警官が帰郷し、彼らが西南戦争の中核となります。川路利良、西郷従道(弟)、黒田清隆は残留組となりますが、残留組の多くが西欧を視察した「帰朝者」であり、反「征韓論」者だということは、明治維新と西南戦争を考える上で面白いです。

タグ:読書
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