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司馬遼太郎 翔ぶが如く(6) [日記(2019)]

翔ぶが如く(六) (文春文庫) 新装版 翔ぶが如く (7) (文春文庫) 【熊本城(熊本鎮台)】
 2月15~17日、薩軍は1番大隊から順次発進します。西目街道を市来→川内→阿久根、米ノ津(出水)から海路、肥後の佐敷へ出る西回りコースと、加治木→横川、大口を経て水俣へ出る東コースをとったようです。

 20日、薩軍先鋒の別府晋介の大隊(郷士隊)は熊本城南の川尻に達し、22日には篠原国幹の一番大隊、村田新八の二番大隊、桐野の四番大隊、池上四郎の五番大隊が到着し熊本城を包囲し戦闘が始まります。熊本城に拠る鎮台兵は、「神風連の乱」でその弱さを露呈し、その後は犬が騒いでも敵兵かと思って銃を発する臆病風に吹かれている有り様。鎮台参謀長・樺山資紀(薩)によると

 熊本鎮台の兵士というのものは、言わば土百姓、素町人の烏合の衆たるに過ぎないのであるから、いかにしても、剽悍なる薩摩隼人の向こうに立ちそうにもない

という鎮台兵が、勇猛さ日本一と謳われた薩摩士族と戦い、圧倒的兵力と物量に支えられたとはいえ最終的にはこれを打ち負かします。一方、桐野にとっては、熊本を通過するにあたって、鎮台兵は城門を開き薩軍を迎えるはずでした(そうした命令が「陸軍大将」西郷から出ている)。

 鎮台は、本気で戦さ(ゆっさ)をするつもりか

と以外な展開に驚きます。2月19日に政府は征討令を出し、22日には熊本城攻防が始まります。
 鎮台が自ら手を下したのか不明ですが、19日、不審火により熊本城天守閣が焼け落ち城下9000戸が類焼します。砲撃の目標となる天守、薩兵の遮蔽物となる民家が無くなることは鎮台にとっては僥倖であり、熊本城は容易に落ちません。薩軍は砲を用いず(到着していなかった)遮二無二銃撃し、鎮台は砲で応戦するという戦いで戦線は膠着。西郷は、熊本城包囲に一隊を残し残りを小倉に向けて発進させます。

 田原坂の戦いで兵員の不足に悩まされますから、この兵力分散も敗因のひとつです。というより、熊本城にこだわったことが決定的な敗因で、政府の援軍が無い間に熊本城を捨てて久留米、博多、小倉と攻め上れば、勝機があったかも知れません。熊本城に時間を取られている間に政府の援軍が到着し、高瀬、田原坂の敗戦となります。
 もっとも、政府の兵員動員は迅速で、20日に第1旅団(野津鎮雄)、第2旅団(三好重臣)の6400の兵力が神戸から先発し、22日博多湾に入り熊本にむけ南進します。この政府軍の迅速な(弾薬を含めた)補給が勝敗を決定づけます。さらに政府軍は薩軍のミニエー銃に比べ連発の新式のスナイドル銃を装備し、電信によって熊本と京(政府要人)大阪(補給基地)、東京と連携し薩軍に対処します。

【熊本隊】
 薩軍は、薩摩士族だけではなく、人吉藩の人吉隊、日向高鍋藩の高鍋隊、日向福島の福島隊、都城隊、豊後竹田の報国隊、豊前中津隊が加わっており、なかでも最大の勢力が池辺吉十郎率いる熊本士族の隊です。多数の学校党と少数の民権党(宮崎八郎、熊本協同隊)の約1000人。いずれも、西郷に期待した九州の不平士族です。

 宮崎八郎(宮崎滔天の兄)の熊本協同隊は、中江兆民から学んだルソーの民権を奉じていることが特徴で、作者は他の不平士族と思想の質の異なる八郎に多くの紙数を費やしています。

 肥後の地を駈けまわっているのは、薩軍や熊本隊、協同隊といった士族だけではありません。西南戦争と同時に農民一揆が起こります。西郷に呼応したものではなく、当時各地で起こった地租改正に反対する農民一揆です。その規模や人数は日に日に大きくなり、乱の後、裁判所に起訴された人数だけでも35000人を越えるという規模です。薩軍がこの一揆と連携すればその後の状況は変わった筈ですが、誇り高い薩摩士族にとって農民は支配の対象に過ぎず、彼らと手を結ぶという発想は無かったようです。

 西郷隆盛の思想における非普遍性の部分は、結局は一般的日本人や人類が、現実としてその理想の中にとらえられていないということにあったであろう。 かれには観念として日本人や人類は存在したが、具体的なかれの感触は日本の士族社会を対象とするときに敏感になった。さらにいえば士族一般というより薩摩士族を考えるときに敏感であり、さらにいえばかれの出身の城下士を考えるときに過敏で、他の郷々の士族についてはやや鈍感であった。

 作者は、宮崎八郎を「人民を座標に置いた最初の革命家」とするに比べ、西郷は反革命家に過ぎないと言っているようです。

タグ:読書
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