現代史資料 1 ゾルゲの見た昭和(2) バルバロッサ作戦 [日記 (2023)]
日本の軍事情報
ゾルゲは軍事情報から日本の対外政策を探ります。日ソの衝突は満州での陸軍だという想定で、軍事情報は陸軍に限られています。
私の諜報グループでは、・・・政治的立場から日本軍が果して支那に向ふかソに向ふか、或は南に向ふかと云ふ様な日本軍の軍事上の諸計画や政策を始め、日本軍部の政府部内に於ける政治的役割や空軍を含む日本陸軍の強化即ち日本陸軍の機械化師団数の増加又は飛行機の改善増加、飛行基地の新設、拡充日本陸軍の編成、及兵力の配置、動員、要塞其の他の諸施設の新規増加、戦車、大砲其の他の最新鋭兵器等に就て諜報しようと努力を致しました。(p258)
ここでもドイツ大使館が重要な情報源となります。オット大使、ショル武官とゾルゲの3名が集まり「支那事変に関する日本軍」の調査研究をしています。中身は「動員計画と其の実施」に始まり、衛戍地(駐屯地と作戦領域)、裝備、補給、戦闘方法、日本の戦時経済と多岐にわたります。
日本軍の再編成 例へば前述の通り従来は四箇連隊で一箇師団を編成して居たのが、 ソ聯軍に対抗して西暦一九三八年(昭和十三年)頃から三箇連隊で 一師団を編成すると云ふ様なことが行はれ始めたことも判明したのであります。(p259)
日本軍の、1)動員状況、2)増強の状態、3)師団数と其の番号、4)日本軍の配置、5)日本陸軍参謀本部の作戦用兵の一般的方法、6)日本軍の再編成などが研究されます。例えば6)について、
日本軍の衛戍地(駐屯地)に関する情報としては、日本内地及朝鮮には 二十師団が衛成して居るのでありますが、之等の衛戍地に就て第一には例へば京都は何師団と云ふが如く郷土の師団が第何師団に当るか、第二には各郷土の師団長の氏名、第三には例へば第一師団は支那に派遣されて居る如何なる師団の人員及資材を補充して居るかと云ふが如き、内地衛戍師団の、外地駐屯師団に対する人員及資材 の補充関係如何を調査研究したのであります。
ドイツ大使館が集めた情報は、報告書として独本国に送られるわけですが、
私は勿論月々之等の報告書を見ることが出来ましたが、其の内容は非常に価値あるものでありましたので、其の都度之等の報告書を写真に撮影して、其のフィルムはモスコウ中央部に伝送致したのであります。
・・・そして斯様な調査研究を継続して居る裡に、日本軍全般の状態なる ものが明瞭に判って参りました...。
ショル武官が帰国したため研究会の活動は低調となり、1941年(昭和16)以降は宮城与徳、尾崎秀実の情報収集に頼ることとなります。
ゾルゲの最大の諜報のひとつバル「バロッサ作戦」の開始情報も、もこの大使館ルートで得ます。
バルバロッサ作戦
スパイ・ゾルゲの功績のひとつに、独軍のソ連進攻、バルバロッサ作戦の情報があります。
・・・其の裡(うち)同年五月頃前に申上げたニーダーマイヤ特使が来して参りディルクセンの私宛の紹介状を持参しましたので会談して見ると、独ソ開戦は既定の事実となって居るが独逸の目的とするところは次の三点である。即ち第一は欧州の穀倉ウクライナを占領すること、第二は独逸の労働力不足を補ふ為少くとも百万乃至二百万の捕虜を得て之を農業及工業方面に使用すること、第三に独逸の東辺に存在する危険を根底から除去すること若し此の機会を措ては他に機会を求めることが出来ぬと、ヒットラーは考へて居ると云ふことでありました。
プーチンのウクライナ進攻と瓜二つ。そしてバルバロッサ作戦の決定的な情報がもたらされます。
同月中に矢張り前に申上げたショル陸軍中佐が来朝しました。 ショル中佐はオット大使に向って判然と独ソは愈々(いよいよ)開戦するから之に対する措置を採れと極秘に伝へたのでありますが私にも色々詳細な話をして呉れたのであり、其の要旨は独ソ戦は来る六月二十日に開始される予定で二、三日延期されることがあるかも知れぬが開戦の準備は既に完了して居る。 東部国境には独逸軍の師団が百七十乃至百九十個集中されて居り之等の師団は戦車を持って居るか、又は機甲化された師団である。独逸軍の攻撃は全線に亘って行はれ其の主力はモスコウとレーニングラードに向けられ後にウクライナに向けすることが出来る。 開戦には最後通牒は出さず先づ戦闘を開始してから後に宣戦を布告する段取りである。二箇月間で赤軍は崩壊しソ聯政権も倒れるであらう。
進攻は宣戦布告無しの奇襲作戦であり、6/20に170~190師団で実施され、モスクワ、レニングラードに向けて行われる、云々。
ショル中佐の此の独ソ開戦に関する情報は総て的中して居りました。 唯開戦の時期が六月二十一となり一日遅れたに過ぎませんでした。・・・私は同年四月下旬から独ソ開戦迄絶えずラジオに依って以上の各種情報をばモスコウ中央部に通報し之等の情報は特に真剣なものだと云ふ警告を附して同中央部の注意を喚起したのでありますが、独ソ開戦後モスコウ中央部から私に対して貴下の労を感謝すると云ふラジオが送られて参りました。(p274)
オット大使も大使館員も秘匿しゾルゲにも漏らさなかった情報を、ニーダーマイヤ特使やショル中佐が一民間人、新聞記者ゾルゲに漏らすわけです。ゾルゲが「スパイの方法」で述べる様に、
オットの政治的協力者として独大使館内では極めて高い道徳的地位を持って居りましたので自分の方から何も働き掛けないのに拘らず、同大使や武官等から積極的に種々な問題に就て色々と話し掛けられたり、又は相談を持ち掛けられましたので、私は少しも労せずして情報を聴取することが出来ました。(p250)
ドイツ本国の然るべき筋から推薦されたゾルゲですから、ニーダーマイヤ特使は疑疑うことなく国家機密を漏らします。ゾルゲが大使館で蒔いた種が見事に花を咲かせた瞬間です。
近年、ゾルゲの電文が発見されています。『国際スパイ ゾルゲの真実』によると、バルバロッサ作戦に関わるゾルゲの電文は、
私は、ドイツ大使オットおよび海軍武官と独ソ間の相互関係について話し合った。オットは、ヒトラーがソビエトを粉砕し、ドイツが全ヨーロッパを掌握するため、ソビエトのヨーロッパ部を穀物、原料基地として、自分の手におく決意に満ちていると述べた。
第一の日付は、ソビエトにおける播種の終了時である。 播種終了後に対ソビエト戦争をいつでも始めることができるので、ドイツのすべきことは、収穫するだけである。(1941年5/2)
ベルリンは、オット大使に、ドイツの対ソビエト攻撃は六月後半に開始されると伝えてきた。オットは、九五パーセントの確率で戦争は開始されると確信している。(1941年5/30)
独ソ戦の開始がおよそ六月一五日という予想は、五月六日ベルリンからバンコックに出発したショル中佐がベルリンから携えてきた情報にもっぱら基づいている。 (1941年6/1)
この電報には「疑わしい、挑発のための電報のリストに入れるよう」とのソビエト側の書き込みがあり、クラウゼンが受信したモスクワの返信は、「貴下の情報の信頼性を疑う」だったそです。
ゾルゲの警告は何故無視されたのか?。一つは、スターリンがスパイの報告には誇張があると考えていたことです。ゾルゲは赤軍情報部のスパイであるとは云え、元は国際共産主義組織コミンテルンに所属するドイツ人であり(1924年にソビエト国籍を得ていますが)、モスクワ指導部に不信感をもたれていたことも理由のひとつです。ゾルゲの情報の的確さが、逆にドイツの二重スパイであるという疑惑も持たれていたようです。
もうひとつが、チャーチルがドイツが戦争をしかけるという情報をスターリンに伝えていたこと。ドイツがソビエトと戦うことはイギリスにとって好都合なため、スターリンはこうしたイギリスからの報告をドイツとソビエトを離反させる謀略と考え、ドイツの攻撃はないという判断をしていたのです。
アイノ・クーシネン(コミンテルンのスパイ)によると、バルバロッサ作戦の情報に接したスターリンは、ゾルゲを「日本のちっぽけな工場や女郎屋で情報を仕入れているクソッタレ野郎」と、こき下ろしたということです。(モルガン・スポルテス『ゾルゲ 破滅のフーガ』)
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