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太田尚樹 尾崎秀実とゾルゲ事件(2):近衛文麿の影で暗躍した男(2016吉川弘文館) [日記 (2023)]

尾崎秀実とゾルゲ事件: 近衛文麿の影で暗躍した男 続きです。
満鉄調査部
 尾崎は、1939年1月の近衛内閣総辞職により嘱託を離れ日本最大のシンクタンク満鉄調査部の嘱託となります。内閣嘱託を離れますが、1941年の逮捕まで「朝飯会」のメンバーとして近衛の政策に関わっていきます。満鉄調査部では、「東京支社調査室情報(東調情)」「東京時事資料月報」「新情勢調査」の作成に関わり、「支那抗戦力調査委員会」に参加し、近衛内閣の政策に影響を及ぼしています。

東京支社調査室情報(東調情)
1939(S14)9/18付の「東調情第8号」では、第二次次世界大戦の勃発によって宗主国の影響力の低下したインドネシア(蘭印)ベトナム(仏印)進出への提言を行っています。

この資料は1年後、昭和15年(1940) 9月23日の北部仏印進駐、同月27日の日
独伊三国同盟締結と、さらに翌昭和16年7月2日の御前会議で決定された「南方進出のためには対英米戦も辞さず」の帝国国策要綱、さらにこの月の25日から強行された南部仏印進駐へと進む、動き出した南進戦略の原案になっている。(p105)

東京時事資料月報
 尾崎は「欧州戦局の急転回と政局」「第二次近衛内閣の成立と新政治組織」 「対米交渉と南方問題」 などを執筆しています。

いずれも、日本が直面した戦局絡みの政治問題を扱った論文ばかりである。この「月報』は時局評論的色彩をもち、戦時下の日本の政治・経済の動向を一歩突込んで分析した情勢判断の資料であり、社外不出であるから、新聞掲載の禁止事項も十分に織込まれていた。(p106)

支那抗戦力調査委員会
 第四回委員会の「三国同盟と支那事変に於ける政治と軍事」の報告書で、三国同盟について肯定的な意見を述べています。

日本の決定的な南進が現在直ちに開始され、日米戦争が直ちに起こることではない。日本の南進問題は、三国同盟が以上の如き客観的意義を持つことと、従来の太平洋上における英米の優越的地位が未だそれほど大幅に破壊されていないために、主として英独戦争の推移に依存するものである。(日本の南進とはなにか) (p114)

ソ連の安全保障にとって障壁となる三国同盟を肯定的に語ることに疑問を感じますが、尾崎にはソ連侵攻阻止とともに日本の国益も視野に入っていたのでしょう。逮捕後の取り調で、「私をスパイと呼ぶな私は政治家である」と述べていいるそうですから、近衛内閣の政策に関与し日本を動かす「政治家」の自覚があったことになります。

新情勢調査
7/2の「御前会議」を受けて満鉄東京支社調査室は「新情勢調査」プロジェクトを立ち上げます。調査は、南進、北進の可否です。

一般社会に対する陸海軍の経済力、比重をこの際考慮しなければならぬ。 例えば鉄や石油の保有量、生産量が減少している事実のみで、日本の国際動向を判定すべきではなく、軍部のこれ等物資保有量を考慮に入れた上判断しなければ正鵠は期せられぬ。(『現代史資料2』)(p139)

尾崎の掴んだ石油備蓄量は、陸軍200万屯、民間200万屯、海軍は1200万屯という数値です。この数値は、開戦となれば半年、最大で1年の備蓄量であり、南北両面作戦には足りません。この情報はゾルゲに提供されソ連に通報されたわけです。著者は、この石油備蓄料が決定的な情報だったと記しています。いずれにしろ、御前会議、軍の南方移動、ドイツ大使館情報、石油備蓄量など、多くの情報によってソ連は極東軍の移動を決定したわけです。

尾崎の政治工作
 南北両面作戦で南か北かの二者択一となります。尾崎は南進政策のために政治工作を開始します。政治工作の舞台は「朝飯会」。

この人々 (近衛の側近たち)は独ソ戦の見通しとして、ソ連につづいて起るスターリン政権の覆滅を予想して居りました。私は朝飯会の席上では甚だ消極的態度でありましたが、牛場、松本(重治)、岸 (道三)、等のソ連崩壊説に反対して、ソ連は軍事的にはドイツには敵わないであろうが直に内部崩壊を来すとみるのは早計である、との意見を述べて居ります。
 しかるに独ソ戦の経過は私の予想通りスモレンスク地区に於いて膠着状態に陥り、ソ連軍が軍事的にもドイツの進撃を阻む状況となって来ました。 そこで私は朝飯会の席上等で自分の見解の正しさを、もっと積極的に主張する様になりました(『現代史資料2』)(p143)

 この朝飯会が何時のことかは分かりませんが、スモレンクスの戦いは8月上旬ですから、8月の朝飯会でしょう。尾崎の発言が近衛に届いたかどうかは疑問ですが、日本は南進に舵を切るわけですから、結果的に尾崎の工作は効を奏したことになります。

尾崎→ゾルゲ→アメリカ
 ゾルゲ事件の情報の流れは尾崎→ゾルゲ→モスクワですが、アメリカにも流れています。独ソ開戦情報をモスクワが信用しないため、ゾルゲはアメリカの新聞にリークしモスクワの危機感を煽ろうとしています。この情報はゾルゲ→ヴーケリッチ→NYヘラルド・トリビューン記者ニューマンに流されます。もうひとつ「国策要綱」の南進策も流れています。
 ヴーケリッチはまた、

昭和十六年五月下旬米国通信記者ニューマンが、米国大使館筋より得たる松岡外相の訪欧中に、海軍関係の日本人政府高官が日米国交調整を開始せんとし、グルー米大使に提示を行ったが、其の内容は「アメリカが東亜共栄圏内の日本の指導的地位を承認し支那事変の調停を行われたいとの要請である」の情報。(『現代史資料1』)(p147)

と供述していますから、ニューマン→ヴーケリッチ→ゾルゲ→モスクワのルートもあったわけです。どんな情報が流れたのかは明らかになっていませんが、諜報の世界の摩訶不思議です。

満州出張
 尾崎は1941、9/4満州に出張し、北進についての貴重な情報をもたらします。

(北進に)消極的な情報としては、第一に列車の運輸数が段々と減少してきた。第二に、派遣された日本軍に対する補給が困難となっている。第三に、前線(満ソ国境)にあった日本軍を満州南部および中央部に集結して越冬準備をさせている。以上の諸点から年内に対ソ戦は行わない、ということが判明したということでありました。
しかし(北進に)積極的な理由としては、第一に鉄道の戦略線が計画されている。しかもその方向が直接北方に向かっているという点で、私の注意を引きました。第二に、新鋭の戦車と重砲とが到着しているが、その数は確かめられなかったということでありました。尾崎が満鉄の人々と話したところでは、彼らは戦争があるか否かは分からぬが、大体の印象としては、すでにその危機は去っているということでありました。(『現代史資料1』)(p150)

極東軍を東部戦線に移動するという重要決定は、ゾルゲ情報だけではなくウラをとっています。ソ連は無線の傍受で、満州に展開する日本軍の無線からも侵攻は無いと踏んだのでしょう。
 この満州情報を最後に、尾崎は10月14日に逮捕されます。

 ゾルゲはコミンテルンの掲げる「世界共産主義革命」の理想を信じて職業的スパイとなり、上海と東京で諜報活動をします。1935年の一時帰国でスターリン体制の大粛清を知り、コミンテルンの理念に疑問を抱き、「ソ連邦の安全保障」「 赤軍勝利」という現実路線にシフトします。尾崎については、著者は「あとがき」でこう書きます。

だが尾崎の場合は、自らの帰属社会への貢献という図式が成立しないなかで、反国家的行動をとった。それは日本の軍事行動に対抗する理論武装・文装的防備でもなかった。だが天皇を頂点に戴いた軍部主導の国家体制の下で、総力戦体制の軍備構築と戦争にひたはしる日本にあって、ソ連邦の安泰と、中国共産党主導の国家建設への加担まではわかるのだが、世界共産主義革命成就後の、日本のグランドデザインが尾崎のなかにみえてこない。 対欧米、なかでも米国との関係がどうあればいいのか、という尾崎の志向見えてこないのである。(p190)

 この項、お終い。

タグ:ゾルゲ 読書
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