グレアム・グリーン 情事の終わり [日記(2011)]
映画「ことの終わり」が面白かったので、原作「情事の終わり」(新潮文庫)を読んでみました。初版が昭和34年で、私の買ったものは平成21年48刷とありますから大ロングセラーです。訳文は当時のままで古色蒼然。1946年のロンドンの愛憎劇を描いた1951年出版の小説ですから、その古色蒼然がかえって雰囲気を作っているのかもしれません。
登場人物は主人公の小説家モーリス、モーリスの不倫相手であるサラァ、サラァの夫で英国内務省高級官僚であるヘンリの三人を中心に、私立探偵パーキンス、無神論者のリチャードの5人です。映画では、サラァのキスによって痣が消えるという奇蹟はパーキンスの息子に起きますが、原作ではリチャードに起きます。サラァの新しい恋人としてモーリスの嫉妬の対象となるリチャードは、映画では神父でしたが、原作では無神論者です。また、モーリスとヘンリの奇妙な友情が成立するのは、原作ではサラァが死んでからです。そうした小さい違いはありますが、モーリスとサラァの不倫、サラァの信仰と大筋はだいたい同じです。
映画は1940年代のロンドンの風俗を背景に、モーリスとサラァの幾分美化された「情事」とヘンリを含む三角関係が描かれましたが、小説の方は映画以上に内省的且つゴシック調の愛憎と信仰の物語です。
小説は3部から成り立っています(実際は4部)。1部は、モーリスを語り手にサラァとの不倫と嫉妬が描かれ、2部はサラァの祷りによって「奇蹟」が起き、神の存在と信仰がサラァによって語られます。1部と2部をつなぐのがサラァの日記をモーリスに運ぶ私立探偵パーキンス、2部で信仰のアンチテーゼとして無神論者のリチャードが配されています。そして3部では、サラァの死によって共犯者?となったモーリスとヘンリの間に友情が生まれ、サラァによってリチャードの痣が消える「奇蹟」が生み出され、これも無神論者のモーリスの動揺が始まります。
一言でいうと、「情事の終わり」はモーリスとサラァと「神」との三角関係を描いた小説です。この手記は憎しみの記録だとモーリスは言います。サラァとの関係をあえて「情事」と呼び、サラァを憎みヘンリを憎み、
自分とサラァの関係を引き裂いた神ヘンリとの離婚、モーリスとの再婚を阻んだ神(教会)サラァを(死によって)奪い去った神
ぼくはあなたの狡猾なことを知っている。われわれを高いところへ連れていって全世界を見せてやろうと言ったのがあなただ。あなたも悪魔です、神よ、跳躍せよと言っている悪魔です。だがぼくはあなたの平和もほしくないし、あなたの愛も愛もほしくない。ぼくはごく単純な、たやすいことを欲しただけです。一生涯のあいだだけサラァをほしいと思ったのに、あなたは彼女を連れて入ってしまった。あなたの雄大な計画によって、あなたは麦刈が野鼠の巣を壊すようにわれわれの幸福を破滅させるのだ。ぼくはあなたを憎みますぞ、神よ、あなたが存在するかのごとくにあなたをぼくは憎みますぞ。
「荒野の誘惑」が出てきました。神を断罪した大審問官の様に、サラァを奪われた憎しみで神を悪魔だとののしっています。「神」そのものが人類がつくり出した共同の幻想だとすれば、サラァの愛も信仰も、モーリスの嫉妬も憎しみも、神という幻想を支えるひとつにしか過ぎません。神よ、あなたが存在するかのごとくにあなたをぼくは憎みますぞと書くことで、モーリスは幻想に押しつぶされる精神のバランスをかろうじて保っている様です。恋愛小説を装ったカトリック文学なのか、神と信仰の衣を纏った恋愛小説なのか?、まぁどっちでもいいのですが、個人的には後者だと思います。「情事の終わり」は徹頭徹尾「恋愛小説」です。
人間の心にはいまだ存在せぬ幾つかの空席があってそれらの席を存在せしめんがために苦悩がそこに座りこむのである (レオン・ブロア)
というエピグラムが冒頭に掲げられています。 そこに座り込むのは、愛であり嫉妬であり憎しみであり、神なんでしょう。
磔刑によってイエスが死んだ後、残された信者が寄り添って教団を組織したように、神にサラァを奪われたヘンリとモーリスが、負の連帯を結んで悪いわけはありません。
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