SSブログ

吉村昭 漂流 [日記(2013)]

漂流 (新潮文庫)
 時代は天明5年(1785年)、土佐の三百石船の水主・長平の13年に及ぶ漂流譚です。作者が記録文学の吉村昭ですから、感情移入を極力廃した重厚なドキュメンタリー(小説)となっています。天明と云うと「天明の大飢饉」があり、田沼意次の権勢が衰え「寛政の改革」が行われた、そんな時代の話しです。

 源右衛門、長平、音吉、甚兵衛4人の乗り込んだ三百石船が、土佐の沿岸をわずか30kmほど走る航海で、嵐に会い舵を壊されて漂流します。流れ着いたのはアホウドリの生息地として有名な「鳥島」。高知沖から800km近く流されたことになります。この無人島での13年間の漂流生活を経て、故郷に帰った水主(水夫)の物語です。
 鳥島.jpg

 前半は、不毛の島「鳥島」に流れついた4人のサバイバルが描かれます。アホウドリが棲息する以外、動物、植物も生育しない火山島で如何に生き長えるか。4人は雨水を貯め、磯の貝や蟹を補食し、アホウドリやその玉子を食べて生き延びます。水、食料、住居、衣服と、困難をひとつづつ克服してゆくこの辺りは、冒険物語として抜群の面白さです。アホウドリを渡り鳥と見抜き、鳥がいなくなる前に乾燥肉を備蓄するあたりは、長平の真骨頂です。
 やがて、食生活の偏りのために源右衛門、音吉、甚兵衛が相次いで亡くなり、長平はひとりとなります。同じ環境で何故長平は生き残ったのか。年齢、体質、海産物の摂取、運動量の多寡と理由はあるわけですが、何より生きようと云う意思が長平を生き延びさせます。3人に仲間が死に、周囲11kmの孤島にひとり取り残された絶望と孤独も、この生きて故郷に帰りたいという思いによって克服します。生きて故郷に帰りたいと云うモチベーションこそが、後に船を作り八丈島にたどり着くという漂流の結末を用意したのでしょう。

 後半は、大阪の船によって流れ着いた11人、薩摩の船で漂着した6人と力を合わせて船を作り鳥島から脱出する物語です。12年4ヶ月の間に21人もの漂流者が流れ着いていますから、鳥島は難破船を運ぶ海流(黒潮)の通り道に位置しているのでしょう。長平は島で多くの白骨を発見していますから、長平以前にも幾多の漂流者があり鳥島で命を落としています。長平の漂流中にも、土佐3名、大阪2名、薩摩2名の死者が出ています。生者と死者を分けるのは、ありきたりな言葉になりますが、やはり「希望」や「意思」をいかに持続できるか、生きることを諦めないかです。過酷な環境下では、生きることに「気を抜いた」途端死が待っています。

 大阪船2名、薩摩船2名の死者が出て漂流者たちは大きく落ち込みます。生への執着が彼らを救うと本能的に感じている長平は、船の建造を思いつきます。生き残った14人に目的を与えて、倦んだ集団を活性化させようと云うマネジメントです。彼らは水主であり船大工の経験はありません。また、島には船の材料になるような木も生えていません。幸い大阪の船に積まれていた大工道具ありますから、島に流れついた流木をつなぎあわせて船を作ろうというわけです。この計画が持ち上がると彼らに活気が戻り、その後生き残った14人だれひとり欠けることなく脱出に成功しています。
 14人を運ぶ船ですから、9☓1.2mの30石に相当する船が必要となります。そんな大きな船を、流木に頼って造ることが可能なのか、板と板をつなぎ合わせる釘はどうするのか。長平たちは毎日のように海岸で流木を探し、フイゴを作り鉄を溶かして釘を作ります。人事を尽くせば天命が下るのか、船の材料となる木材が漂着し、鉄が枯渇すると海岸で碇が見つかります。構想から2年の歳月を費やし、パッチワークにも似た船が出来上がり、14人は外洋へ乗り出します。長平が鳥島に漂着してから実に12年4ヶ月の月日が経っていました。

 面白いです。『ロビンソン・クルーソー』『十五少年漂流記』を読んだ子供の頃の興奮が蘇ってきます。

タグ:読書
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0