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備忘録 織田作之助 年譜  [日記(2014)]

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 織田作之助を読んでゆくための、備忘録です。
  netを検索したのですが、まとまった年譜はなく、こちらの『織田作之助年譜』が唯一のものかと思われます。『織田作之助年譜』の骨子を書き写し、個人的な備忘録としました。他の資料にあたりながら、ぼつぼつ書き足していきたいと思います。『織田作之助年譜』の作成者様には感謝申し上げます。

 『世相(1946)』を読むと、 昭和15年(16年か?)に『青春の逆説』が発禁となり、あれも書きたいこれも書きたいと思うものの時代がそれを許さず鬱々としていた様子がうかがえます。そして終戦とともに堰を切ったように作品が発表され、一躍流行作家となるものの、2年後の昭和22年34歳で亡くなります。‘if’を考えても意味はありませんが、本当に早すぎる死です。
 
大正2年(1913)
12/26、大阪市天王寺区上汐町四丁目27に誕生。父鶴吉は仕出し屋。姉2人、妹1人の長男。
大正9年(1920) 7歳
 4月、大阪市立東平野第一尋常高等小学校(現、市立生国魂小学校)に入学。
大正15年・昭和元年(1926) 13歳
 4月、大阪府立高津中学校(現、府立高津高等学校)に入学。
昭和5年(1930) 17歳
 12月、母たかゑ亡くなる
昭和6年(1931) 18歳
 4月、第三高等学校文科甲類に入学、寮で田宮虎彦と同室
昭和7年(1932) 19歳
 9月父鶴吉亡くなる。長姉の夫、竹中国次郎から学資の援助を受ける
昭和8年(1933) 20歳
 3月、「落ちる」を三高文芸部編集の「嶽水会雑誌」に発表、同誌の編集に携わる
昭和9年(1934) 21歳
 2月、喀血。三高を卒業できず、和歌山県白浜温泉や小豆島に転地療養。9月、京都に帰り、復学。宮田一枝と同棲
昭和10年(1935) 22歳
 卒業試験をうけず留年
昭和11年(1936) 23歳
 1月、同人雑誌「海風」を創刊、戯曲「朝」を発表。3月、出席日数が足りず三高を退学。秋、青山光二を頼って上京、
 12月、「海風」に戯曲「モダン・ランプ」を発表。
昭和12年(1937) 24歳
 5月、宮田一技上京。
昭和13年(1938) 25歳
 2月、処女作小説「ひとりすまふ」。大阪版「濹東綺譚」(夫婦善哉)を構想。
 11月、「」(「青春の逆説」の原型)
昭和14年(1939) 26歳
 4月、帰阪、義兄竹中国次郎方に寄寓。織物新聞社を経て、日本工業新聞社に入社。宮田一枝と正式に結婚。
 9月、「俗臭」を「海風」に発表。

昭和15年(1940) 27歳
2月、「俗臭」が芥川賞候補となる。4月、「海風」に「夫婦善哉」を発表。5月、「放浪」を「文学界」に発表。8月、『夫婦善哉』を創元社より刊行。井原西鶴を読みはじめる。11月、「子守唄」を「文芸」に発表。日本工業新聞社を辞職、作家生活に入る。
時代小説「合駒富士」を野田丈六の筆名で「夕刊大阪新聞」に連載。

昭和16年(1941) 28歳
 2月、「二十歳」(後の青春の逆説)を刊行。
 6月、「雪の夜」を発表。7月、「立志伝」を発表。
 『青春の逆説』(「二十歳」の続編)を刊行。間もなく、発売禁止処分をうけた。
 12月、「海風」解散、同人雑誌「大阪文学」を創刊、「動物集」を発表。

昭和17年(1942) 29歳
1月、「秋深き」を発表。時局のため歴史小説に活路を見出そうとする。
4月、「天衣無縫」を発表。歴史長編『五代友厚』を刊行。
7月、評論『西鶴新論』、書き卸し長編『月照』を刊行、「西鶴忌について
9月、「勧善懲悪」を発表。
10月、「雷の記」、作品集『漂流』を刊行。「素顔」を「新潮」に発表
11月、「わが町」を「文芸」に発表。

昭和18年(1943) 30歳
1月、作品集『素顔』を刊行。
2月、「藤沢桓夫論」、
4月、『わが町』を刊行。
6月、「随筆大阪」を刊行。
8月、「聴雨」、「杉山平一について」。「わが町」エノケン一座により上演される。
9月、「」、「勝負師」。『大阪の指導者』、『大阪の顔』、『清楚』を刊行。
11月、「武家義理物語」(西鶴現代語訳)。

昭和19年(1944) 31歳
3月、「木の都
7月、「清楚」が森本薫脚色により放送され、放送賞
川島雄三監督、織田作之助脚本で『清楚』『木の都』を原作とした『還って来た男』を発表、時局悪化のため放送に活路を求める
8月、妻一枝死去
9月、「
11月「高野緑
「わが町」が上演され、出演中の輪島昭子と知りあい同棲

昭和20年(1945) 32歳
1月、「ニコ狆先生」、連続放送劇「猿飛佐助」大阪中央放送局から放送。
2月、「猿飛佐助
3月座談会「大阪と文学
6月、「表彰」、「十五夜物語」、西鶴「世間胸算用」の現代語訳
放送劇「十六夜頭巾」を大阪中央放送局より放送。
11月、「
12月、「見世物

昭和21年(1946) 33歳
1月、「土足のままの文学」、作品集『猿飛佐助』
2月、声楽家笹田和子と結婚するも、ふたたぴ輪島昭子と同棲生活に入る。
3月、「六白金星」、「アド・バルーン
4月、「神経」、「世相」、「競馬」、「夫婦善哉後日」、「それでも私は行く」(四月二十五日~七月二十五日)、「夜光虫
5月、「」、「四月馬鹿」、『素顔』刊行。「夜の構図」を12月まで連載。
6月、作品集『文楽の人』刊行。「郷愁」、『青春の逆説』を刊行
8月、「大阪の憂鬱」、「西鶴の眼と手」、「りぺらる」、「土曜夫人」を「読売新聞」(八月三十日~十二月八日)に連載。
9月、作品集『六白金星』を三島書房より刊行。
10月、評論「ジュリアン・ソレル」、「二流文楽論」、「怖るぺき女」を連載
11月、「中毒」、「土曜夫人」取材のため輪島昭子同道し上京。評論「サルトルと秋声
太宰治・坂口安吾と座談会、太宰治・坂口安吾・平野謙と座談会
12月、「死神」、「可能性の文学」。大量の喀血、『世相』を刊行。病状悪化。

昭和22年(1947) 34歳
1月「大阪の可能性」、1月10日輪島昭子にみとられ永眠。
2月、「文学的饒舌」、『船場の娘』、『妖婦』刊行。
3月、『怖るぺき女』、『天衣無縫』、『夫婦善哉』刊行。「妖婦」(遺構)が「風雪」に発表
4月、『夜光虫』、『夜の構図』、『土曜夫人』刊行
7月、『それでも私は行く
8月、評論集『可能性の文学』、『西鶴新論』刊行。

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