SSブログ

高橋源一郎 日本文学盛衰記 [日記(2015)]

日本文学盛衰史 (講談社文庫)
 森鴎外、夏目漱石、石川啄木たち明治の小説家詩人を登場させればどんな小説が書けるのか?という「小説」です。二葉亭四迷の葬儀で森鴎外と夏目漱石が出会い、「タマゴッチ」(当時流行っていた)の話をするは、啄木と北原白秋が揃ってピンクサロンに出掛けるは、荒唐無稽な話が随所に出てきます。二葉亭四迷、北村透谷も田山花袋も読んだことは無いので、唯一分かるのは漱石だけです。

【啄木と漱石】
 漱石と石川啄木が朝日新聞の風呂で出会います。漱石が入社したのが1907年(明治40年)、啄木が朝日新聞の校正係と入社したのは1909年(明治42年)ですから、ふたりは出会っているのですね。啄木は「朝日歌壇」の選者となり「二葉亭全集」の校正などに携わっていますから、社内でもそれなりの位置をしめていた筈です。啄木は、胃潰瘍で長与胃腸病院した漱石を見舞い、啄木が死の床に臥せった折には、漱石から見舞いが届いているようです。
 1910年「大逆事件」が起き、啄木は『時代閉塞の現状』を執筆します。その冒頭で啄木は、

数日前本欄(東京朝日新聞の文芸欄)に出た「自己主張の思想としての自然主義」と題する魚住氏の論文は、...

と書いているところから、『時代閉塞の現状』は東京朝日新聞の文芸欄に載せるつもりで書かれたようです。朝日新聞の文芸欄は、1909年(明治42年)、漱石を主宰者として創設され、漱石一門の森田草平、小宮豊隆、安倍能成らによって運営されたそうです。作者の推理では、『時代閉塞の現状』の執筆を依頼したのは漱石その人ではないかと言います。

 「大逆事件」に触発されて時代を批判したこの評論は、朝日新聞に載ることは無かったのです(漱石は朝日新聞のために掲載しなかった)。この経緯を啄木は日記にこう記します、

為政者の抑圧非理を極め、予の保護者、ついに予をしてこれを発表する能わざらしめたたり(啄木の日記)

漱石によって依頼された原稿が漱石によって葬られる-『こころ』の謎はこうやって始まるのである(日本文学盛衰記)

【WHO IS K?】
 結論から先に云うと、『こころ』のKは啄木をモデルとしたものであり、先生=漱石はK=啄木を裏切り(『時代閉塞の現状』を没にしたこと)、「大逆事件」に沈黙を守る自分に耐えきれず自殺した、というのです。啄木は1912年に病没し、『こころ』の連載は1914年4月から始まります。

 作者は、『こころ』のKの正体を、

①頭文字「K」を持ち
②漱石を「先生」と慕い
③けれども、漱石に手ひどく裏切られ
④坊主の息子として生まれ
⑤幼い頃養子となり、姓が急に変わって友人を驚かしたことがあった

とします。啄木は僧侶の息子として生まれ、結婚できない僧侶の妻の戸籍で「工藤一」という名でした。これで、①④⑤はクリア、Kは先生に裏切られ、先生≒漱石とすれば②③もなんとかクリアです。作者は、Kのモデルを啄木として、『こころ』の謎を解いてみせます。

【先生は何故自殺したのか?】
 『こころ』の最大の謎は、先生の自殺です。明治天皇の崩御と乃木希典の殉死が引き金になったということですが、あまり説得性はありません。先生自身も「あなたには分からないだろう」と遺書に書いているくらいです。
 『日本文学盛衰記』では、啄木の書いた『時代閉塞の現状』を(結果的に)握りつぶし、「大逆事件」について沈黙し続けた漱石のトラウマが『こころ』を生んだというのです。つまり、「大逆事件」に鋭く反応した純真な啄木をKとして描き、Kを自殺を引き金に、先生を自殺に追い込むことによって漱石は小説の上で自分を裁いたということです。

 先生については「よそよそしい頭文字などはとても使う気にはならない」と書きながら、Kという人物を登場させたのは、頭文字Kという人物が実在するからともいえます。それが、工藤一(啄木)なのか、北村透谷なのかはたまた幸徳秋水なのか、諸説があるようです。
 『こころ』には、先生とお嬢さんとK、先生と奥さんと「私」、の二つの三角関係が描かれていますが、その背後には漱石と「大逆事件」と啄木の三角関係がある、というのが『日本文学盛衰記』の結論です。

 明治の文学史を理解してないと、この小説は楽しめません。従って、私にとってこの本の大半はチンプンカンプン、田山花袋がAVビデオの監督をするなど、殆ど理解不能です。

nice!(6)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 6

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0