SSブログ

アイノ・クーシネン 革命の堕天使たち(1992平凡社) その2 強制収容所編 [日記(2018)]

AinoKuusinen.jpg Terijokipakten.jpg
続きです。

強制収容所 ー第六章 ヴォルクタでの八年間の強制労働ー
 召還指令を受けたアイノ・クーシネンは、モスクワに着くとOGPU(国家政治保安部)に逮捕されブトゥイルカ刑務所で取り調べを受けます。取り調べの冒頭がふるっています、

ブルジョア裁判においては検事が被告の有罪性を証明しなくてはならないが、わが国のシステムでは、被告は自分の無罪を証明しなければならない

 やがて「罪状」が明らかになります。アイノは、夫オットー・クーシネンがイギリスのスパイであることを告発する書類にサインさせるために「逮捕」されたのです。アイノは、多くの女囚と同じく「夫や親族がスパイであったことを告発しなかった罪」で逮捕されたわけです。誇り高いアイノは、このデッチアゲに署名を拒み続けたようです。
 スターリンの「大粛清」が如何なるものであったかは、多くの文献(例えばソルジェニーチェンの『収容所群島』)で明らかになっていますから、アイノのラーゲリでの体験や見聞については省き、彼女が帝政期の司法とボリシェヴィズムの司法を比較したくだりを少し。
 彼女によると、
・帝政のもとで裁判なしに人々が数か月から数年国内流刑を宣告されることがあったのは事実であるが、流刑地での生活条件は一般的にそれほど厳しいものではなかった。政治的不穏分子はロシアから追放されるだけという場合もあった。
・ロシア帝国領内の流刑囚は、自分の好きなやり方で生活を送ることができ、国家は生活維持とという名目で彼らにひと月9ルーブルを支給した。それは、当時田舎で生活するのに十分な額であった。自己資産があればそれを使うことも許された。
・居住区域内を動き回ることは自由であり、永住のために親族も呼ぶこともできた。
・手紙を出すことも、本や新聞、その他必要なものを注文することもできた。
と記し、レーニンの例をひきます。
 レーニンは1898~1900のシベリア流刑で、婚約者を呼び寄せて一緒に暮らし、結婚をしている。レーニンの同志はしばしば彼の元を訪れている。レーニンは狩りにも出掛け、国外の友人と文通し、この流刑中に『ロシアにおける資本主義の発達』を書き上げたのである。帰還したとき、彼は国外渡航のためのパスポートまで与えられたのである(p255要約)。

 月9ルーブル支給の話は初耳ですが、ドストエフスキーの『罪と罰』でソーニャはシベリヤでラスコーリニコフと生活を共にし、『カラマーゾフの兄弟』ではグルーシェニカはシベリアに流刑となるドミートリイの後を追いますから、帝政ロシアの司法制度はそれなりの温情があったということです。

 アイノはまた、人々は理由なくしては有罪とされず、人々は通常、公開の裁判にかけられ、自己を弁護する機会があった。強制収容所はなく、死刑の宣告はまれで、死刑が宣告されると新聞と公衆によって論議の的とされた、と記し、帝政時代から3度の逮捕歴のあるひとりの女囚のエピソードを紹介します。
 この女囚は、学生時代、時革命運動をして禁固刑を受けたが妊娠していたためカレリア(ロシア北西部)に流刑され、国が支給する金で夫と共に暮らした。カレリアの村は出産に適さないため流刑地の変更を申請すると、食料と赤ん坊の衣類が届けられ、中央ロシアへ移動の許可が下りた。この話を聞いた同房の女囚たちは、皇帝の「専制」下での政治囚たちが人間らしく扱われており、公正な裁判ののちに法に従った判決受けていることに驚きます。

 ブトゥイルカ刑務所で三度目の刑に服役していたこの女性がいかなる運命たどったのかわたしは知らないが、彼女がどちらの体制に好意を寄せていたか、わたしには言うまでもないことだ。

 スターリンの粛清によって、1937年から1938年までに、134万4923人が即決裁判で有罪に処され、半数強の68万1692人が死刑判決を受け、63万4820人が強制収容所や刑務所へ送還られ(wikipedia)、ソルジェニーツェンによると逮捕者は6000万人を超えたそうです。これに、流刑地での死亡とウクライナ飢饉による餓死者を加えると、犠牲者は数千万人の規模となり、未だに正確な数字は分かっていないようです。粛清によって処刑された人々は、スターリンの死後復権しました、アイノは、次の言葉でこの章を締めくくります。
キリスト教徒は死後の復活を信じ、コミュニストは死後の復権を信じる

オットー・クーシネン
 アイノの夫で、ソ連共産党中央委員、政治局員、中央委員会書記を務め、レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフの時代を乗り切ってクレムリンの壁に葬られたファインランド人、オットー・クーシネンです。アイノはオットーと法律的には離婚していませんが、1935年の日本から一時帰国以後彼の死までオットーと顔を合わせたことはなかったようです。オットーを擁護したこと(イギリスのスパイ容疑を否定)はあっても彼に救いを求めたことは一度もなく、オットーは強制収容所に囚われた妻を救出しようとはしません。アイノは、妻や息子の窮状を無視してクレムリンの奥の院にすまして座っていた夫に、愛想をつかしていたのです。

 クーシネンはアイノに、自分は「蛇のように、人生で七度脱皮した」と自慢していたそうです。
 アイノはこう書きます。忠誠をたてる相手を七度変え、哲学見解を七度変容させたのである。学生時代は信心深く教会に通い、大学では熱狂的な愛国主義者、民族主義者。その後彼は労働者階級に深い関心を抱き、社会民主党に加わって国会では党を代表した。1918年のフィンランド共産党蜂起では、左翼マルクシストで世界革命の擁護者であった。1930年代、彼は、政治的手段による世界革命の達成を期待することは誤りで、世界革命を達成する唯一の方法は軍事力であることを、自分自身とスターリンに信じさせたのである(p325要約)。

 妻ばかりか、息子がシベリア送りになった時も、最初の妻の兄が逮捕された時も、腹心のコミンテルン同志が逮捕された時も、指一本動かそとはしない保身家だったようです。熱烈なトロッキストのオットーは、トロツキがスターリンに追放されるとトロツキーを批判する論文を書き、親友ブハーリンが「プラウダ」編集長の席を追われると、党中央委員会でブハーリン批判の演説をしたそうです。これこそが、レーニンからブレジネフにいたる4人の独裁下で生き残ってきた秘密です。 「革命の堕天使」とはオットー・クーシネンのことかも知れません。

タグ:読書
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。