SSブログ

再読 半藤一利 永井荷風の昭和 ③(2012文春文庫) [日記 (2022)]

永井荷風の昭和 (文春文庫) 浅草.jpg
@ お断り ⇒いたずらに長く引用多いです。
続きです。
荷風さんの浅草
 荷風さんは数多くの浅草を舞台にした小説を書いています。その浅草への思いは、時局柄「オペラ館」が閉鎖となった昭和19年3/31の『日乗』を読むとはっきりするそうです。

《・・・オペラ館は浅草興行物の中真に浅草らしき遊蕩無頼の情趣を残せし最後の別天地・・・オペラ館楽屋の人々は或は無智朴訥、或は淫蕩無頼にして世に無用の徒輩なれど、現代社会の表面に立てる人の如く狡猾強慾傲慢ならず、 深く交れば真に愛すべきところありき≫(昭和19年3/31)

踊り子と一緒に楽屋で撮った有名な写真があります。荷風さんは楽屋に入り込んで、無智で淫蕩無頼、世に無用の輩を気取り、世間で威張っている狡猾、強慾、傲慢の輩では無いこと確認していたのでしょう。淫蕩はその通りなんですが。荷風さんは、その死に至るまで毎日のように浅草に通っています。

お神籤
去年秋ころより観音堂の御籤ひきたしと思いながら、いつも日の短くて、ここに来る時は堂の扉とざされし後なり≫(昭和16年1/27)

 荷風さんでも浅草観音でお神籤くらいひきます。半藤さんは「去年秋ころ」に拘ります。昭和15年の9/23には日本軍は仏領インドシナへの占領を開始し、9/27には日独伊三国同盟が締結されます。つまり、アメリカとの戦争の「卦」が出てきたわけで、その先どう転ぶか?と荷風さんはお神籤をひいたというのです。それはコジツケだろう、新しい彼女との相性でも占ったんだろうと思うと、

字義どおり内憂外患、その言をそっくり借りれば 《国家破産の時期いよいよ切迫し来れるが如し≫ 昭和15年11/5)
・・・つまりは、それが、荷風が《去年秋ころ≫ より痛切に感じられてきたことの正体なのである。 それを憂えるのあまり、それで今日こそはとお神籤をひいてみた。それは《第九十二吉。左にしるすが如し≫なのである。
そして荷風はこのとき吉であるのに少なからず気をよくしている。
《すこしよすぎるようなれど、此分なれば世の変革ももさして憂るに及ばざるものか。筆禍の身の及ぶことはなきものの如し》昭和16年1/27)

別に日本の将来を心配しているわけでは無いのです。「筆禍」つまり小説が発禁になったり、逮捕されることを恐れていたわけです。笑うのは、この御神籤の項で半藤さんが自分の過去をついポロリと漏らしていること、

こっちはごく少ない体験ながら、そののち社会人になってからも好き合ったSKDの踊り子と二人してそっとひいたことがある。そのときも、深い祈りをこめたのに出たお神籤は二人とも凶、大いに前途を悲観したものであった。

浅草寺の資料でお神籤は、大吉18%、小吉31%・・・凶32%で構成されているという話の後、

この寺には大凶の籤はないものの凶が三割もあっちゃわたくしのように踊り子に振られる不運をひきあてるひとも多いわけである。
一緒にお神籤をひいたSKDの踊り子にはフラれたようです。そう言えば、半藤さんは玉の井の件でも体験談と蘊蓄を披露してくれていますから、荷風さんに劣らず盛んであった?。
 「お神籤」の最後の話は何とも切ないです。荷風さんは浅草観音の大吉のお神籤を肌身離さず持っていたとのこと。戦争中、「偏奇館」が焼けないように祈りしながらひいたお神籤が凶で偏奇館は焼失。それ以来、大吉が出るまでひき続けることにしたそうです。

「大吉をもっていれば、人に迷惑をかけずにぼっくり死ねる。しょっちゅうそう観音さまに頼んでひいている」
と、荷風は心を許したひとに語っていたという。それで亡くなったとき、衣服のポケットには観音さまの大吉のお神籤がきちんと四つに折られて入っていた。

荷風さんとカメラ
荷風踊り子1.jpg rolleicord1-main.jpg
 《・・・空腹に堪えざれば直に銀座に赴きて夕飯を喫す。 帰宅の途上氷を購い家に入るや直に写真現像をなす》(昭和12年9/3)

写真現像をなす、とあるように、荷風さんは昭和11年10/26にカメラを買っています。以下本書には触れられていない話です。

夜久邊留(銀座の喫茶店)に往く。安藤氏に詫して写眞機を購ふ金壱百四圓也(昭和11年10/26)
ローライコードⅠ型という二眼レフで104円。昭和3年頃の小学校教員の初任給45~55円ですから、104円は給与の2倍で高価。写真現像をなすとありますから、荷風さんは自ら現像もしていた様です。荷風と写真については、東京さまよい記さん記事が詳しいです。

此の日薄晴。風なく暖なれば墨堤に赴き木母寺其他二三個所の風景を撮影し・・・(11/16)
天気快晴。昨の如し。三階物干し場に出で、娼妓の寫眞を撮影す。江戸町の通りを見下ろすに裏木戸近きあたりに女ども打ちつどいて猿廻しを看る。此の光景も亦カメラに収む(昭和12年6/11)

 映画『濹東綺譚』には、小説家・大江がお雪のヌード写真を撮影するシーンがあったと思うのですが、6/11の娼妓の寫眞がそうした写真だったのかどうかは?。自ら現像する辺りが怪しい、というのはゲスの勘ぐりw。引き続き東京さまよい記さんのサイトから。

二月一日。隂。午後丸の内に用事あり。又 空庵子を築地に訪ふ。名塩君周旋のカメラを購ふ 参百拾円也 晡下玉の井に徃き一部伊藤方を訪ふ。帰途雨雪こもごも至る。(昭和12年2/1)

荷風さん、2台目のカメラ高級機のローライフレックスを買っています。310円ですから1台目の2倍。当時の首相の給与が800円ですから、荷風さん、気合が入っています。

秋庭(永井荷風研究家)は、ローライコードを買って間もないのに、新しく高級機を購入したのは、前回のカメラでは室内や夜間撮影が能くし得なかったからであるとしている。前回の記事のように、この年(1937昭和12年)1月荷風自らが写真の現像をはじめているが、前年12月5日の吉原仲之町の夜間撮影や12月26日の芸姑の室内撮影などの現像結果がおもわしくなかったのであろうか。
佐々木桔梗は、「私家版「濹東綺譚」の寫眞機」で、前回の記事にある、1月21日の日乗の「玉の井に遊ぶ。奇事あり。」、帰宅後の「写真を現像して暁二時に至る。」の記述から、室内で「奇事あり」の撮影をし、その写真を現像したが露出不足かピンボケなどでよくない結果であったと推量し、一台目のローライコードの性能に見切りをつけ、その後、すぐ、「キュウペル」あたりの常連に相談し、明るいレンズの二台目のカメラを入手したとしている。(東京さまよい記さんの荷風と写真(5)

荷風と写真(6)にはエッ!と云うような解説もあります。半藤さんもさすがにここまでは書けなかったのでしょう。荷風さん、カメラに入れ込んだようです。

タグ:読書 昭和史
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。