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再読 半藤一利 永井荷風の昭和 ②(2012文春文庫) [日記 (2022)]

永井荷風の昭和 (文春文庫)  @ お断り ⇒引用多いです。
続きです
「非常時」の声のみ高く(昭和8~10年)
 昭和8年は、日本が国際連盟を脱退した年です。来るべき戦争を意識して「非常時」という言葉が叫ばれ、関東では「防空大演習」が実施されます。

《八月十日。晴。終日飛行機砲声殷々たり。此 夜 も燈火を点ずる事能わざれば薄暮家出で銀座風月堂にて晩餐を食し金春新道のキュペル喫茶店に憩う。 防空演習を見むとて銀座通の表裏いずこも人出おびただしく、在郷軍人青年団其他弥次馬いずれもお祭騒ぎの景気なり。此夜初更の頃より空晴れ二十日頃の片割月静に暗黒の街を照したり昭和8年8/10

防空大演習など我関せずと、灯火管制のなか銀座で夕食を食べ、喫茶店に憩うわけです。この日の日記を「月静に暗黒の街を照したり」と閉じる辺りは荷風さんの精一杯の皮肉。

 昭和8年には、小林多喜二が治安維持法で逮捕、虐殺され、滝川事件などが起きます。翌9年には出版法、新聞法が改正され、10年には天皇機関説事件、国体明徴の声明と、徐々に言論の自由が制限される時代に入って行きます。昭和12年になると言論統制が強化され、11月には大本営に報道部が設けられ言論取締が厳しくなったそうです。名作『濹東奇譚』は12年4/16~6/15に新聞に連載され間一髪、発禁を免れます。半藤さんは、芸術のミューズ(女神)が微笑んだ、と書きます。

濹東の町 昭和11年~12年
濹東綺譚』の町「玉の井」の話です。

《余去年の六七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり。去月二十四日の夜わが家に連れ来りし女とは、身上ばなしの哀れなるに稍(やや)興味を牽きしが、これ恐らくはわが生涯にて闇中の快楽を恣にせし最終の女なるべし。色慾消磨し尽せば人の最後は遠からざるなり。依てここに終焉の時の事をしるし置かむとす》(昭和11年2/24)

自宅に連れ帰った女性と何事もなく、身の上話を聞いただけというのですが、荷風さん57歳で未だ若い?。で、「色欲頓挫」と書きつつ玉の井を頻繁に訪れてれます。半藤さんの友人(磯田光一)が数えたところ、5月7回、6月2回、7月1回、9月13回、10月12回だそうです(7月1回、8月0回は、玉の井の「蚊」を避けてのこと)。どこが「色慾頓挫」なんだw。

《晩餐後浅草より玉の井を歩む。 稍(ようやく)迷路の形勢を知り得たり。然れども未精通するに至らざるなり》4/11
《晩餐後重ねて玉の井に往く。 道順其他の事につき再調を要する処多きを知りたればなり》4/23

「迷路」とは有名な「ぬけられます」の迷路。玉の井ラビリンスにハマり抜け出せなくなったようです。玉の井で《お雪》と出会うわけです。

女はもと洲崎の某楼の娼妓なりし由。年は二十四、五。上州辺の訛りあれど丸顔にて眼大きく口もと締りたる容貌、こんな処でかせがずともと思はるるほどなり。9/7)

《秋陰昨の如し。終日執筆。命名して墨東綺譚となす≫10/7
《晴れて暖なり。落葉を焚く。濹東綺譚の草稿成る≫ (10/25)

半年にわたる玉の井通いで名作『濹東綺譚』が生まれます。ちなみに、昭和11年は2・26事件起こった年です。反骨の荷風さんよりも、やはりコッチの方が面白いw。

ニ・ニ六事件(昭和11年)
 私的な日記であった『日乗』が社会性を帯びてくるのは昭和7~8年からで、2・26事件以後になると
すます精彩をおびてくる。 荷風は国家の抱擁を頑としてはねつけ、字義どおり孤立無援のなかで一日 一日を刻みつけていったのである。

だそうです。2・26事件を、荷風さんは友人からの電話で知ります。
《ラジオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ、平日よりも物音なく、豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思えど、降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す》昭和11年2/26

青年将校が決起した憂国の反乱ですから、何か感想があると思うですが、寒いので出掛けず風呂を焚いて寝た、です。新聞もラジオも事件を伝えないため翌27日から3日間、野次馬根性で市中に出かけます。

 《議会の周囲を一まわりせしがさして面白き事なく、弥次馬のぞろぞろと歩めるのみ。 虎の門あたりの商店平日は夜十時前に戸を閉すに今宵は人出賑なるため皆燈火を点じたれば、金毘羅の縁日の如し≫ 2/27

商店が夜遅くまで店を開けている様を「金毘羅の縁日」だと云うのです。青年将校の気持ちは分かるとか分からないとか、『日乗』に事件の感想がありそうなものですが、半藤さんが書いていない以上、無かったのでしょう。「風呂を炊いて入った」「見物に行った」「縁日の様だった」とは恐れ入ります。おまけに事件の1ヶ月後には玉の井通いです。

 2・26事件で皇道派が力を失い統制派の天下となります。予備役に追い落とした皇道派の将官が復帰しないよう「軍部大臣現役武官制」を復活させ、軍部独走の下地が出来ます。その時の陸相が寺内寿一(広田内閣)。この寺内と荷風さんが中学の同窓だった話となります。寺内は2・26事件で大将8人が現役を去ったため陸軍大臣に上り詰めますが、半藤さんに言わせると

父に長州陸軍の大ボス正毅元帥をもち、育ちだけがとりえの、才気のない、凡庸の人の評がある。幕僚の言をただ聞くだけの無策の総大将でもあったと。
同級生であっただけに、荷風の炯眼は寺内本質を早くも見抜いていたようで、そこが面白い。

つまり、寺内は我が荷風散人を持ち上げるためネタにすぎません。

《一橋の中学校にてたびたび喧嘩したる寺内寿一は、軍人反乱後、陸臣となり自由主義を制圧せんとす》3/18
《人の話に近刊の週刊朝日とやらに余と寺内大将とは一橋尋常中学校の同級の生徒なりしが、仲悪く屢(しばしば)喧嘩をなしたる事など記載せられし可恐可恐》3/27

ふたりが通っていた中学は校則で坊主刈り。荷風さん頭髪を伸ばし、香料入りのチックをつけ、髪を分けて登校したと云います。それを見た(陸軍士官学校へ行くくらいですから)硬派の寺内他は放課後に荷風さんを呼び出し鉄拳制裁。これをおもだして「可恐可恐」なんでしょう。

最高位の軍人にとっては一文士ごときはの見下した想いが、戦時下日本の武張った姿をよく象徴している。しかも鉄拳制裁・頭ごつんごつんぐらいですんだ中学時代とちがい、生殺与奪の権がいまや一方的にあっちにある時代となった。《可恐可恐》と荷風さんが寺内の名を聞いて肩をすくめた気持はとてもよくわかる。

半藤さんは、これが書きたかったわけです。

タグ:読書 昭和史
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