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浅田次郎 兵諫(2021講談社) [日記 (2022)]

兵諫  兵諫(へいかん)とは馴染みのない言葉ですが、兵による「諫言」という意味で、

遠い昔、楚の忠臣が主君を懼れ敬するがゆえに、剣を執ってその行いを諌めた。兵を挙げてでも主の過ちを諌める。すなわち兵諫である。

《クーデター》です。本書では、ニニ六事件と張学良が蒋介石を拘束して「安内攘外」(内戦停止、一致抗日)を迫った西安事件が取り上げられます。

ニニ六事件(1936.2.26)
 昭和11年秋、東京。『マンチュリアン・レポート』で天皇の密勅を帯びて「張作霖爆殺事件」を調査した志津大尉と、張作霖軍の列車に同乗して 片足を吹き飛ばされた元軍事顧問の吉永大佐が登場します。志津は、ニニ六事件の首魁のひとり元陸軍大尉・村中孝大尉を陸軍刑務所に訪ねます。治安維持法改悪反対の怪文書をばら蒔いて禁固6ヶ月となった将校と、ニニ六事件の首謀者の面会です。普通なら実現しない面会ですから、何らかの力が働いていたはず。これも勅命で、事件に際し蹶起部隊を反乱軍と呼び、近衛師団を自ら率いて鎮圧するとまで言った天皇が、張作霖事件に続きことの真相を志津大尉に調査させたわけです。

 ニニ六事件の首謀者15名は7/12に処刑されますが、村中大尉と磯部大尉は北一輝、西田税の裁判のため処刑は伸ばされ、北、西田と同じ8/19に処刑されます。志津大尉は

蹶起将校たちは北と西田に踊らされた、という図にすれば、軍は被害者ということになります。

北と西田を有罪として極刑にすることで、軍は被害者となりその威信は傷つかないわけです。

 ニニ六事件の背景には、陸軍の皇道派と統制派の派閥闘争があります。事件の前年には、皇道派の相沢中佐が統制派の永田少将を惨殺する事件が起き、統制派は皇道派の将校の多い第一師団を満州に飛ばし皇道派を日本から遠避けようとします。相沢事件と第一師団が引き金となってニニ六事件は起きます。陸軍中央=統制派は事件を予測していたのではないか、これは一種の謀略ではないか、と志津は考えます。事実、事件後には皇道派は一掃され壊滅します。

二・二六は予測されていた、と」
「あるいは当日ではなくとも、近々起きるであろうことはわかっていたと思います。事件を誘導して、危険人物を一網打尽にする。戒厳令下の軍法会議ならば全員を抹殺できます。むろん、相沢中佐も、民間人もいっぺんに」

危険人物を一網打尽にして軍法会議で全員を抹殺しようというわけです。ニニ六事件は謀略だったという新説です。
  自ら兵を率いて鎮圧すると言った天皇も、二・二六事件によるショックは大きかった様です。事件はトラウマとなって、後年の2/26には側近に「治安は何もないか」と尋ね、警視庁を視察した際には、警視総監に「色々な重要な施設等暴漢例えば、二・二六の如き折、充分防護は考えていようね」とご下問があったそうです。 続きます。

タグ:読書
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