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加藤陽子 それでも、日本人は「戦争」を選んだ(3)  太平洋戦争 [日記 (2024)]

それでも、日本人は「戦争」を選んだ 続きです。日清戦争、日露戦争は朝鮮半島をめぐる安全保障のための戦争で、第一次世界大戦もまた対中対米の安全保障のための戦争でした。満洲事変と日中戦争は、日清日露戦争で獲得した権益を護る戦いでした。では太平洋戦争はどうだったのか?。日中戦争は、「満蒙は日本の生命線」「大東亜共栄圏」のスローガンの下でそれを支持する世論に支えられ、1937年8月に上海事変、12月南京占領、1938年に武漢作戦と戦線を拡大します。

 日本の中国進出は、柳条湖事件を調査した国連のリットン調査団によって満州国と共に否定されています。英米は借款を供与しては中国を援助し、援蒋ルートを通じて援助物資を搬入します。一方でアメリカは航空機と部品の対日輸出を禁止し、日米通商航海条約を破棄、日本の在米資産凍結、石油の対日輸出全面禁止と経済制裁によって日本の封じ込めを図ります。
 日本は戦局打開のため、この搬入ルート(援蒋ルート)を叩くために1940〜41年仏領のベトナム・カンボジアに進駐。これは、同時に石油、ゴム、鉱石の戦略物資を調達し長期戦に備えるためでもあったと言います。フランスはドイツによる占領状態(ヴィシー政権)にあり、ドイツと同盟関係にある日本がフランス領を侵攻することは容易なわけです。1941年、日米交渉が開始されますが、アメリカは汪兆銘政権を認めず、日本軍の中国、仏領インドシナからの全面撤退、日独伊三国同盟の破棄を求めます(11/26ハル・ノート)。仏印進駐 →ハル・ノート →真珠湾奇襲に至るわけで、仏印進駐は「回帰不能点」と言われる所以です。

 太平洋戦争に決定的要因はなさそうです。抜き差しならなくなった日中戦争の延長線上で12月7日の真珠湾奇襲し英米に宣戦布告するに至ります。

 9/6の「御前会議」で、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を論じ対英米戦争を決定します。
  1. 帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
  2. 帝国は右に並行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し
  3. 前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む(原文)
 陸軍がこの御前会議のために準備した文書には、こう書かれている。 来るべき戦争は英米蘭(イギリス、アメリカ、オランダのこと)に対するものであって、その戦争の目的は、東亜、つまり東アジアにおける米英蘭の勢力を駆逐、追い払って、帝国の自存自衛を確立し、あわせて大東亜新秩序を建設することにある、と。

 日本は他のアジア諸国と軍事的、経済的、政治的に緊密な関係を樹立しようとしたのに英米蘭は日本の計画に反対している。日本がこの時期にあって後退すれば、アメリカの軍事的地位は時の経過とともに優位となり、日本の石油の備蓄量は日ごとに減ってゆく。この時期、開戦を一年、二年と延ばすのは、かえって、歴史が教えているように不利になるだけだ。(p400)

 「歴史が教えている」とは、大阪冬の陣のことで、

 開戦の決意をせずに戦争しないまま、いたずらに豊臣氏のように徳川氏に滅ぼされて崩壊するのか、あるいは、七割から八割は勝利の可能性のある、緒戦の大勝に賭けるかの二者択一であれば、これは開戦に賭けるほうがよい、との判断です。このような歴史的な話をされると、天皇もついぐらりとする。アメリカとしている外交交渉で日本は騙されているのではないかと不安になって、軍の判断にだんだんと近づいてゆく。(p402)
石油のは、民生用が200万t、陸軍200万t、海軍は900万tであり、半年分にも満たない備蓄量です。日本は追い詰められていたわけです。

 太平洋戦争もまたこれを支持する世論があったと言います。著者は、太平洋戦争を嘆息する南原繁の短歌に続き、中国文学者の竹内好と小説家で評論家の伊藤整の日記を取り上げます。
 竹内は、日中戦争は「弱い者いじめ」だと捉えていたが、太平洋戦争は東亜が米英の支配から脱却する戦争なのだと考えます。伊藤はシンガポールが陥落した1942年2/15の日記に

この戦争は明るい。・・・平均に幸福と不幸とを国民が分ちあっているという気持ちは、支那事変前よりも国内をたしかに明るくしている。 ・・・実にこの戦争はいい。明るい

と記します。戦後のリベラリストの竹内と伊藤が太平洋戦争を支持していたのです。
 また、「いよいよ始まる。キリリと身のしまるを覚える」「我らの気持ちはもはや昨日までの安閑たる気持ちから抜け出した。落ちつくところに落ちついた様な気持ちだ」(『草の根のファシズム』)と一般庶民の日記を紹介します。
 これだけで大東亜戦争を支持する世論がどれだけあったのかは?ですが、真珠湾奇襲と「大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」というニュースは、見通しの立たない日中戦争に倦んだ国民の気分を「明るく」したことは否定できないでしょう。

 我が荷風山人はどうかというと、

(12/8)褥中小説『浮沈』第一回起草。哺下(夕刻)土州橋に至る。日米開戦の号外出つ。帰途銀座食堂にて食事中燈火管制となる。街頭商店の灯は追〃に消え行きしが電車自動車は灯を消さず、省線は如何にや。余が乗りたる電車乗客雑沓せるが中に黄いろい声を張上げて演舌をなすものあり。

(12/9)くもりて午後より雨。開戦の号外出でてより近郊物静になり来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり。夜小説執筆。雨声瀟〃たり。

(12/10)雨歌み午後に至って空霽る。

(12/11)晴。後に陰。日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり。 浅草辺の様子いかがならむと午後にきて見る。六区の人出平日と変りなくオペラ館芸人踊子の雑談また平日の如く、不平もなく感激もなく無事平安なり。余が如き不平家の眼より見れば浅草の人たちは尭舜の民の如し。仲店にて食料品をあがなひ昏暮に帰る。

(12/12)開戦布告と共に街上電車その他到処に掲示せられし広告文を見るに、屠れ英米我らの敵だ進め一億火の玉だとあり。 或人戯にこれをもじりむかし英米我らの師 困る億兆火の車とかきて路傍の共同便処内に貼りしといふ。現代人のつくる広告文には鉄だ力だ国力だ何だかだとダの字にて調子を取るくせあり。寔(まこと)にこれ駄句駄字といふべし。哺下向嶋より玉の井を歩む。 両処とも客足平日に異らずといふ。金兵衛にして初更に帰る。(断腸亭日乗)

 12/8布団の中で書いていた小説『浮沈』とは、さだ子という女性が、女給から人妻へ、さらに未亡人、ふたたび女給、人妻、待合の女というように、変転する運命を描いた「女給もの」です。12/12には玉ノ井に出かけています。ナチスのフラン侵攻の号外で、仏都巴里陥落の日近しと云う。余自ら慰めむとするも慰むること能わざるものあり。晩餐も之がために全く味なし。燈刻 悄然として家にかえる(5/18)と夕食の味がしなかったことに比べると淡々たるものです。

 この項お終い。

タグ:読書 昭和史
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