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半藤一利 昭和史 1926-1945 ② 満州は日本の生命線 (平凡社) [日記 (2022)]

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー) 満州は日本の生命線
 昭和史の勉強、続きです。張作霖爆殺事件(昭和3年)で沈黙する天皇が作られ、統帥権干犯問題(昭和5年)で天皇を持ち出せば政治が介入できない聖域が出来上がった(魔法の杖)というのが、昭和史のスタートだったといのが前段でした。張作霖爆殺事件は日露戦争で獲得した満州の利権が絡みますから、昭和史は満州と共にあったと言ってもいいかも知れません。

 張作霖爆殺事件では、陸軍の謀略を暴こうとする天皇の側近、西園寺公望、牧野伸顕、鈴木貫太郎の3人が登場します。軍部の云う所謂君側の奸です。3人は2.26事件で標的となり、鈴木は重傷を負い、西園寺と牧野は辛くも難を逃れます。張作霖爆殺事件は後の5.15、2.26事件などのテロを準備したと言えそうです。

 張作霖爆殺事件の責任を取って河本大作が去り、代わって石原莞爾が作戦参謀として関東に赴任します。石原の唱えたのが『世界最終戦争論』。《第一次世界大戦が終わり、世界に平和が戻ったが、列強はいずれまた次の世界戦争を始める。日本は国力を蓄え、日本とアメリカが雌雄を決する最終戦争に備える》、というものです。
 石原は、昭和4年に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決案」を発表し、国力を蓄えるカギは満州であり、満州を発展させその富で戦力を整えよ、と説きます。これに呼応する形で関東軍は「満蒙領有計画」策定し、張作霖の後継である張学良を掃討して満州を軍事占領するという計画。参謀本部は「満蒙問題解決方策 大綱」(昭和6年)を作ります。石原の私案が国策となったわけです。

満州事変、割り箸は右へ転んだが・・・
 満州の軍事占領ですから、もっともな理由が必要です。関東軍の立てた計画は、張作霖爆殺事件と同様の南満州鉄道の爆破。またしても謀略です。このために、関東軍no.3板垣征四郎が軍事課長・永田鉄山、作戦部長・建川美次を東京に訪ねているそうですから、これはもう関東軍の作戦ではなく陸軍の作戦です。キナ臭さを感じた天皇は、陸相を呼んで軍規の粛正を命じ、陸相は作戦を中止させるために作戦部長・建川美次を関東軍に派遣します。中止命令が来ること知った板垣、石原等は論議を重ねますが、結論は出ず、

板垣が「こうなったら運を天にまかせて 割り箸 を立てて決めようじゃないか」──鉛筆でやったという説もありますが、ともかく右へ転んだら中止、左に転んだら決行、ということでやってみたら、右へ転んだらしいんです。

エンピツを転がすというのはテストの時よくあるわけですが、戦争を始める際に使うか!です。で、結局決行と決まり、建川が奉天に着くと、板垣は酒豪の建川を料亭に連れ込んで酔い潰してしまい作戦中止命令はウヤムヤ。板垣は建川の上をゆく酒豪だった様です。見ていたような話ですが、この辺りが半藤『昭和史』の面白いところ。

 9月18日22時頃、関東軍によって柳条湖付近の南満州鉄道が爆発されます。張作霖爆殺事件では不逞の中国人を使って犯行がバレたので、今回は関東軍自らが実行します。板垣は「張学良軍の攻撃である。奉天城、 北大営を攻撃せよ」と命令を下します。満州事変はすべては、板垣、石原等関東軍過激派の独断専行で始まります。「統帥権干犯」、陸軍刑法に基づけば死刑という立派な犯罪。当時の関東軍は兵力1万、一方の張学良軍は奉天だけでも2万、満州全土では25万という大軍。石原は、朝鮮軍(日本軍)に応援させるという手筈まで整えています。
 奉天と東京に電報が飛び交います。

深夜一時七分、陸軍中央に奉天発第二〇五号電が届きます。 「…… 暴戻 なる支那軍隊は満鉄線を破壊し、わが守備隊を襲い...」

午後六時ころ、金谷参謀総長からの電報が届きます。「 不拡大 方針 に確定した、軍の行動は必要度を越えることなかれ」 

この電報で関東軍司令官・本庄繁は心変わりします。「速やかに停戦するように、ハルビン進攻などもってのほか」というわけで、そう決めたら沢庵石の本庄は動きません。石原は気抜けして「ああ、わがこと 成らず」と 嘆息して畳 の上にひっくり返ったらしく、・・・すると板垣がむくと起き上がって、「石原、ハルビンがだめなら隣の 吉林省へ進軍してはどうか」と言うのです。このへんが板垣のすごいところで、これに応じて石原も起き上がり「そうか、吉林省は奉天を守るために確保する必要がある」と元気を取り戻します。

 吉林省で暴動が起きれば、邦人保護ために進軍が可能なります。吉林省は朝鮮と国境を接していますから、朝鮮軍の越境支援も容易です。これで作戦は息を吹き返し、関東軍司令官・本庄と陸軍参謀・建川の会談になります。関東軍の暴走を止めに行った建川は、ミイラ取りがミイラとなっています。沢庵石とあだ名される本庄はテコでも動かない。幕僚全員で談判に行くも本庄は動かず、石原は「これでおしまい」と全員帰ってきます。ひとりだけ帰らなかったのが板垣、板垣は本庄と黙ってニラメッコをして本庄のokを取ったそうです。

板垣という剛の者──この東北人は足の裏を針で刺したら三日たって「痛い」と言ったという話もあるくらいで──の 鈍重 にしてかつ 粘り強さによって、二十一日 未明、再び関東軍は息を吹き返したのです。

 1万人の関東軍でどうにもならず、朝鮮軍の応援が要ります。国境を越えて兵を動かすには天皇の裁可が必要ですが、天皇は拒否。朝鮮軍司令官・林銑十郎が独断で兵を動かします。21日午後、 朝鮮軍の兵隊1万人が一気に鴨緑江を越えて満州に入ります。統帥権干犯です。
 22日閣議が開かれ「柳条湖事件」を審議しますが、朝鮮軍が鴨緑江を越えたという報が入ると、若槻首相は「すでに入ってしまったのか。それならば仕方がない」と特別軍事予算が組まれる始末。

 天皇は「戦争の拡大はまかりならん、朝鮮軍の越境は認めない」と言いますが、若槻首相は「閣議が全員一致で決定し、越境した朝鮮軍に特別軍事予算をつけた」と奏上します。張作霖爆殺事件で、内閣が一致して決めてきたことについて天皇はノーと言わないことが慣例となりました。天皇はやむを得ないと、認可してしまいます。統帥権干犯として裁かれるべき暴発に予算が付くのです。

昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが、私の思いであります、とは著者の嘆き。続きます。

タグ:昭和史 読書
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