SSブログ

吉行淳之介 驟雨(1966新潮文庫) [日記 (2022)]

原色の街・驟雨 (新潮文庫)
 「娼婦」は小説家にとって興味のある対象のようで、永井荷風には玉ノ井の娼婦・お雪との交情を描いた有名な『墨東綺譚』があります。『驟雨』(1954年芥川賞受賞作)もまた、若いサラリーマンが新宿の「赤線」の娼婦に傾斜する物語です。恋愛の相手が娼婦であっても何の不思議でもありません。

 英夫が道子と待ち合わせの場所に急ぐシーンから始まります。

その女を、彼は気に入っていた。気に入る、ということは愛するとは別のことだ。愛することは、この世の中に自分の分身を一つ持つことだ。・・・そこに愛情の鮮烈さもあるだろうが、わずらわしさが倍になることとしてそれから故意に身を避けているうちに、胸のときめくという感情は彼と疎遠なものになって行った。

 そうした人間関係への用心深さから、英夫は娼婦を「買う」わけです。放蕩児の言い訳のようにも聞こえますが、「精神の衛生に適っている」と考えます。ところが、待ち合わせの場所に急ぐ彼の胸は「ときめき」ます。英夫は、道子に娼婦以外の感情を抱き「自分の分身を一つ持つこと」によって「煩わしさ」を抱え込むわけです。『驟雨』は、その「ときめき」と「煩わしさ」の物語です。

 英夫は、道子の部屋の壁に貼った女優のグラビア写真が巧みにトリミングされていることに感心し、湯飲みを差し出す仕草に道子に茶の湯のたしなみがあると感じます。荷風がお雪を「鶏群の一鶴」(掃き溜めの鶴)と考えた様にです。道子は「次に来るまで操を守っている」と告げ、英夫は娼婦の操などたかが知れていると思いながら、傾斜を深めるわけです。

女をこの地域の外の街に置いて真昼の明るい光で眺めてみたら、その興味は色褪せる筈だ。

ところが色褪せず、道子の鏡台に安全剃刀の刃を発見して、見知らぬ客に嫉妬する始末。本書の解説(長部日出雄)の受け売りになりますが、男女の関係は普通は恋愛 → 肉体関係至りますが、娼婦を扱った小説では逆転し、肉体関係 → 恋愛となります。この逆説によって娼婦を題材とした小説が成り立っています。恋愛は、肉欲を超越した形而上の何かによって成り立っているわけです。
 道子がどういう人間であるかという以前に彼女を「気に入って」しまいます。人と人の関係は誤解から成り立っているとするなら、英夫は道子という鏡に写った自らが産み出した幻を見ているわけです。娼婦を愛した結末はどうなるのか?。

 英夫は、友人の結婚披露宴に参列した日、道子の元を訪れます。その翌朝、彼女と喫茶室に入り不思議な光景を目にします。

道路の向う側に植えられている一本の贋アカシヤから、そのすべての枝から、夥しい葉が一斉に離れ落ちているのだ。風は無く、梢の細い枝もすこしも揺れていない。葉の色はまだ緑をとどめている。それなのに、はげしい落葉である。それは、まるで緑いろの驟雨であった。ある期間かかって少しずつ淋しくなってゆく筈の樹木が、一瞬のうちに裸木となってしまおうとしている。地面にはいちめんに緑の葉が散り敷いた。

 英夫は友人の結婚披露宴に参列した翌日に、道子と一緒にこの光景を見ます。一方に結婚による妻という女性があり、もう一方に娼婦が居ます。英夫がその間で揺れているとするなら、驟雨=落葉は、道子という憑き物が落ちる象徴と言えそうです。「緑いろの驟雨」を見た後、英夫は道子と別れますから、道子という妄想から自由になことで、人生の次のステップに足を掛けたわけです。

 『墨東綺譚』における荷風とお雪の別れも「驟雨」、

季節は彼岸に入った。空模様は俄(にわか)に変って、 南風に追われる暗雲の低く空を行き過る時、大粒の雨は礫(つぶて)を打つように降りそそいでは忽(たちま)ち歇(や)む。
・・・風雨の中に彼岸は過ぎ、天気がからりと晴れると、九月の月も残り少く、やがて其年の十五夜になった。 前の夜もふけそめてから月が好かったが、十五夜の当夜には早くから一層曇りのない明月を見た。わたくしがお雪の病んで入院していることを知ったのは其夜である。墨東綺譚)

 荷風は、驟雨の中、お雪が荷風のコウモリ傘に飛び込んできたとで出逢います。荷風は驟雨とともにお雪と出逢い驟雨とともに別れたことになります。吉行淳之介もまた。『驟雨』は、娼婦を愛するという物語で、男女の関係の実相を描いた、と言えます。
 1957年売春防止法が施行され、表向き「赤線」は消えましたが、『驟雨』は紛れもない恋愛小説の名作です?。吉行淳之介は今では誰も読まないでしょうが。

タグ:読書
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:

図書館から 電子書籍を 借りてみた [日記 (2022)]

図書館.jpg 図書館2.jpg
 図書館から電子書籍を借りてみました。これだと図書館に本を受け取り、返却の手間が省ける、今日読める!。と、だんだんモノグサになってきました。Wimdows、Mac、android、iPhoneに対応しているので、androidタブレットに落としました(一度借りればどの端末でも読めます)。瞬時にダウンロード出来てすぐに読めます。これは便利と思ったのですが、何時も使うkindleとは勝手が違います。
Screenshot_20220224-124947.jpg Screenshot_20220224-124909.jpg Screenshot_20220224-150019.jpg
                         フォント拡大
 フォントを大きく出来るのですが(老眼には必須)、レイアウトが固定で1行の文字数が自動的に変更されまません。ブックマークも設定できません。8インチのタブレットでは、拡大して1ページに収めても未だ文字が小さい、好みの文字に拡大すると画面からはみ出します。ページ送りができず、見開き2ページが連続しています。端末にダウンロード出来るのでオフラインで読むことはできますが、コピーは出来ません(スクリーンショットはできる)。KindreFireHDに 無理矢理入れたChromeで読むから、こうなるんでしょうか?。Windowsで開いてみると ↓ 。見開き2ページが連続していますが、1ページづつ表示させることもできます。しかしながら、PCで本を読むのはどうも違和感があります。
電子書籍1.jpg 電子書籍3.jpg
 規格にフィックスリフローがあるようで、借りたのはフィックス。リフローだと1行の文字数が自動的に変更されるらしいです。リッチコンテンツや音声コンテンツもあって、ものによっては音声読み上げにも対応しているようです。東洋文庫もけっこうありますが、いずれもフィックス。青空文庫がたくさんラインアップされていますが、青空文庫なら何も図書館から借りる必要はありません。
 せっかく借りたので読んでいますが、電子本は軽くて目に優しいkindleが一番です。
 すぐ借りることが出来るので、利用してみようかと思います。

タグ:読書
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:

映画 やさしい本泥棒(2013米) [日記 (2022)]

やさしい本泥棒 [DVD] 本泥棒  原題、The Book Thief。マークース・ズーサックの原作『本泥棒』の映画化です。

 ヒトラー政権下のドイツを舞台に、ミュンヘン郊外に住むペンキ職人夫婦に預けられた少女リーゼルの物語です。リーゼルの両親は共産主義者だったために収容所に送りとなり、里子に出されたのです。ナチスの親衛隊や突撃隊が登場しユダヤ人迫害も描かれますから、数多く作られた「ナチもの」です。従って、切り口が問題となります。例えば最近観た同種の映画では、

 アイヒマンを追え! (2015独)・・・アイヒマンを追う検事フリッツ・バウアー。
 謀議(2001米英)・・・ユダヤ人虐殺を決定した「ヴァンゼー会議」の内幕。
 愛の嵐(1974伊)・・・親衛隊将校とユダヤ女性のラブストーリー、ホロコーストの加害者と被害者と倒錯の愛。
 ナチス第三の男 (2017仏英ベルギー)・・・チェコの副総督ラインハルト・ハイドリヒの暗殺(エンスラポイド作戦)。
 家に帰ろう(2017西・アルゼンチン)・・・ポーランドを尋ねるアルゼンチンの仕立屋のロードムービー、訪問の背景がユダヤ人迫害。

と、正面からナチズムを描くのではなく、斜めから描くところに特徴があります。

 原作では、ヒトラーの扇情的弁舌とゲッペルスのプロパガンダの「言葉」に、ナチズムの被害者である少女リーゼルとユダヤ青年マックスが記す「言葉」が対置されます。
 ヒトラーvs.リーゼル+マックスとはなりませんから、この主題を映画はどう描いたのか?。マックスは、ヒトラーの『我が闘争』のページを白いペンキで塗り潰し、リーゼルはその上にハンスとローザ、親友ルディとの戦時下の生活、本との出会いを記します。マックスとリーゼルは、ヒトラーの『我が闘争』を上書きし乗っ取ったことになります。題名の『本泥棒』とは、リーゼルがヒトラーから「本を盗んだ」ことを言っているいることにもなります。

 原作を読んでいるのでそう言えるのであって、映画で十分に描かれているとは言えません。映像化されると、ジェフリー・ラッシュ、エミリー・ワトソンの演技の上手さもあるのですが、時代に翻弄される庶民の哀感や戦争の悲惨が前面に出てきます。映画化の難しいところです。700ページの長編を2時間の映像にしたため、あれもこれも詰め込んで原作のストーリーを追うだけの映画となっています。原作のストーリーを離れ、ヒトラーから本を盗むという一本に絞った方がよかった様に思います。
監督:ブライアン・パーシヴァル
出演:ジェフリー・ラッシュ、エミリー・ワトソン、ソフィー・ネリッセ

タグ:映画
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

マークース・ズーサック  本泥棒 (2007早川書房) [日記 (2022)]

本泥棒 銃後の小国民
本泥棒。またの名をリーゼル・メミンガー・・・
1939年の1月のことだった、彼女は9歳、もうすぐ10歳になろうとしていた。弟が死んだ。

 弟は埋葬され、この時リーゼルは墓掘人のポケットから落ちた本を拾います。本は『墓掘り人の手引書』でこれが《本泥棒》の1冊目となります。彼女は、ミュンヘン郊外モルキングで、ローザ・フーバーマン、ハンス・フーバーマン夫妻の里子となります。1939年ヒトラーがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まった年です。『本泥棒』は、「銃後の少国民(死語)」のリーゼルの物語ということになります。が語り手は彼女ではなく《死神》!。リーゼルが共産主義という言葉を記憶しているところから、両親はナチスによって収容所送りとなり、彼女は里子に出されたわけです。

 『本泥棒』の登場人物はなかなかユニークです。里親フーバーマン夫妻のハンスはペンキ職人。戦時下でペンキ職人では十分に暮らしてゆけず、街の酒場でアコーデオンを演奏して小遣いを稼ぎ、妻のローザは裕福な家の洗濯を請け負い何とか暮らしています。ハンスは、字の読めなかったリーゼルに、『墓掘り人の手引書』をテキストに文字を教え、彼女に言葉の世界を拓きます。ローザは夫ハンスを「このろくでなし!」と罵り、木の匙でリーゼルを折檻する非情な里親。ローザは決して狷介な女性ではなく、リーゼルが実の母親に手紙を出すために洗濯代金から切手代をくすねた時には、彼女を抱きしめる優しさを持つ女性です。
 ハンスは第一世界大戦で出征し、彼にアコーデオンを教えたユダヤ人の戦友に命を救われ、後にこの戦友の息子マックスを地下室に匿うことになります。屋根裏に匿われたアンネです。当時ユダヤ人を匿うことが如何に危険な行為であったか。フーバーマン夫妻は乏しい配給制の食料でユダヤ人を匿ったことになります。

 リーゼルは、市長邸に洗濯物を届けた際に市長夫人と知り合い夫人は邸の膨大な蔵書を彼女に見せます。リーゼルはこの図書館から本を盗む本泥棒となります。夫人は、本泥棒リーゼを見逃し辞書を提供してリーゼルの読書を影で支えることになります。夫人が何故本泥棒を見逃したかというと、彼女は、モルキングで行われたナチスの「焚書」の際、燃え残った本をリーゼルが密かに持ち帰る姿を目撃していたからです。本泥棒とは、焚書に対するアンチテーゼでもあるわけです。
 サッカー仲間で隣家の同級生ルディ・シュタイナーが秀逸です。ベルリンオリンピックの陸上競技で4冠を達成したジェシー・オーエンスに憧れ、全身に墨を塗って夜の競技場を走る逸話を持ち主。リーゼルが好きになり、本泥棒の手伝い彼女にキスをせがみ、もっとも、彼女はキスを断固拒否し10歳の少年少女の微笑ましい恋が描かれます。
 戦時下の不自由と貧しさの中で、ローザ、ハンス、ルディと暮らすリーゼルの成長が描かれるわけですが、語り手は《死神》。戦時下ですから死神は多忙、絶滅収容所や爆撃の悲惨な死も語られ彼等の運命やいかに、という興味もあります。何しろ死神が辺りをうろついているわけですから。

言葉の力
 モルキングの街を空襲が襲います。人々は防空壕に逃れ不安な時を過ごし、リーゼルは防空壕で本を読み聞かせ彼らを勇気づけます。続きが聞きたい婦人はリーゼル自宅に招き、リーゼルは朗読してコーヒー豆を得ます。
 フーバーマン家の地下室に匿われたマックスは、『我が闘争』のページを白ペンキで塗りつぶし、そこにリーゼルのために一遍の物語を創作します。ヒトラーから「本を盗んだ」ことになります。マックスの物語によって、リーゼルは書くことを知り、自伝『本泥棒』を書くことになります。死神の語るリーゼルとルディ、フーバーマン夫妻は、死神が読んだこの『本泥棒』だったというわけです。

 マックスの創作の一節です、

あるところに、不思議な小さな男がいました。その男は自分の人生について三つの大切なことを決めました。
 1.髪の分け目を他のみんなとは反対側にする。
 2. 小さな、不思議な口ひげを生やす。
 3.いつの日か世界を征服する。
この若者は、どうすれば世界を自分のものにすることができるかを考え、計画し、その答えをみつけようと、長い時間歩き回りました。

ヒトラーです(確かに髪の分け目は反対だ!)。ヒトラーは、母親が子供を叱り慰める出来事に遭遇します。
お母さんは男の子にたいへんやさしく話しかけました。そうされると男の子はなぐさめられ、笑顔さえ浮かべたのです。若者はそのお母さんのところに駆け寄って彼女を抱きしめました。
「言葉だ!」若者はにやっと笑いました

 『本泥棒』は、第二次世界大戦下のドイツを舞台に、言葉の持つ力を描いたと言えます。

 その後、リーゼル、フーバーマン夫妻、ルディはどうなったのか?無事戦争を生き抜いたのか?。『本泥棒』は、《死神》の最後の語りで終わります、

***語り手からの最後のメモ***
わたしは人間にとりつかれている。

タグ:読書
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:

近所にあった「朝鮮人労働者」慰霊碑 [日記 (2022)]

P7061308.jpg P7061311.jpg
 佐渡島金山の世界遺産登録を韓国が反対し、日本では政治問題となりました。で思い出したのが、私の散歩コースにある「光明池 朝鮮人労働者慰霊碑(地図)」。光明池は、1936年に作られた大阪府和泉市と堺市南区に跨る農業用溜池です(築堤工事)。近くの国分寺町が光明皇后の生誕地だという伝説があり、光明池と名付けられた様です。光明池は1931~1936年に築造工事が行われ、多い時には300人の朝鮮人労働者が従事し、事故で命を落とした朝鮮人労働者のために建てられた慰霊碑です。慰霊碑の周りには半島ゆかり木槿が植えられ、慰霊祭も行われているそうです。
 説明板には、「工事で亡くなった朝鮮人労働者を慰めるために建立されたもの」とあり「大林組」の社名もあります。在日本大韓民国民団のサイトには「光明池工事で犠牲になった韓国人徴用労働者を悼んで建つ慰霊碑」と記されています。半島で徴用が始まったのは1944年~であり、この工事の時には徴用はありませんから説明板の朝鮮人労働者が正しいでしょう。「徴用労働者」「徴用工」は、未だに解決されない日韓の歴史認識です。

大韓民国臨時政府
 佐渡島金山の世界遺産登録は、韓国にとっては「国体」を揺るがしかねない問題だそうです。当時、朝鮮半島は日韓併合によって日本領土ですから、日本政府が朝鮮半島の国民を「徴用」することは不法でも何でもありません。これを認めると、韓国の憲法で謳う「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」という建国の理念が崩れるわけです。つまり

 大韓帝国→臨時政府(併合は違法)→大韓民国 というストーリーが崩れ
 大韓帝国→日韓併合(合法)→大韓民国 というストーリーとなるわけです。

 大韓民国臨時政府は、自由フランスやチェコスロバキア臨時政府のように国際的には認められておらず(過去も現在も)、李承晩や金九による私的な団体に過ぎません。自由フランスは仏国内のレジスタンスを支援し、チェコスロバキアはエンスラポイド作戦(類人猿作戦)を行っていますが、大韓民国臨時政府・軍事組織の光復軍は戦闘らしい戦闘はしていません。日本の敗戦と米国軍の進駐によって独立を果たしたというのが、歴史的事実だと思われますが、韓国は、「日本から独立を勝ち取った」という認識です。フィリピン(1946宗主国米)、インド(1947英)、ビルマ(1948英)、インドネシア(1949蘭)などと同様、wwⅡの終結によって独立を果たしたというのが、世界史における「認識」だと思われます。

徴用と強制連行
 徴用を認めることは、朝鮮半島が日本の領土であったことを認めることになります。日韓併合を認めることの出来ない韓国は、徴用を「強制連行」という言葉に置き換えます。1910年に朝鮮半島は日本に併合され、日本の下に近代化が行われたことは紛れもない事実。大韓民国の「歴史」はこの事実を認めないところから出発しています。従って佐渡島金山の世界遺産登録問題は認められない、認めるにしても軍艦島同様に徴用ではなく強制連行、強制労働があったことを明記せよ、となります。

 ここまでの日本の報道では、朝鮮労務者は募集に応じた「募集工」であり、朝鮮労務者に対しては、日本人(内地労働者)と概ね同一の賃金と年2回の賞与が支払われ、退職金制度、寮・社宅があり、勤続3か月以上で団体生命保険にも加入でき、事故で命を落とした場合には300円の保証があったそうです(文書が残っているらしい)。敗戦と朝鮮労務者の帰国によって、支払いが出来なかった給与は国に供託されています。給与が支払われ社宅や退職金、生命保険まで用意されている「強制労働」はあり得ません。つまり、朝鮮半島からの「出稼ぎ」です。もっとも、登録の対象期間は16~19世紀の江戸時代の佐渡金山ですから、朝鮮人には無関係の登録なのですが。さて、ユネスコはどういう判定を下すのでしょうね。

タグ:朝鮮・韓国
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

絵日記 バレンタインデー [日記 (2022)]

IMG_20220213_184659.jpg IMG_20220213_184758.jpg
 スノーボールとガトゥです。スノーボールは初めてで美味しかったです。薄力粉、アーモンドプードル、バターを混ぜて170度のオーブンで20分ほど焼くだけだそうです、今度作ってみます。

タグ:絵日記
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

柳 美里 JR上野駅公園口(2014河出書房) [日記 (2022)]

JR上野駅公園口 (河出文庫)  東北の玄関口であるJR上野駅の公園口近く、ブルーシートの「コヤ」に住むホームレスの物語です。主人公は、昭和8年福島県相馬郡で生まれた8人兄弟の長男。主人公は、上皇陛下(小説では天皇)と同じ昭和8年生まれ、長男の誕生日は今上天皇(小説では皇太子)と同じ昭和35年2月23日。上野公園正式名称は「上野恩賜公園」。「恩賜」と付きますから宮内庁から下賜された施設です。その恩賜公園を天皇と同じ歳のホームレスの男が住居としていることになります。
 ホームレスは、サラ金の借金が嵩み行き場を失った男、離婚の末家族に捨てられた男など事情は様々。

 ホームレス
昔は、家族が在った。家も在った。初めから段ボールやブルーシートの掘っ建て小屋で暮らしていた者なんていないし、成りたくてホームレスに成った者なんていない。こう成るにはこう成るだけの事情がある。

 成りたくてホームレスに成った者なんていない。こう成るにはこう成るだけの事情がある、と男はその事情を語り出します。農業だけでは暮らしてゆけず、北海道の昆布漁、東京オリンピックの土木工事へと出稼ぎに行きます。昭和30年代の話です。

動物園に限らず、遊園地にも海水浴にも山登りにも行かなかったし、入学式にも卒業式にも授業参観にも運動会にも行ったことはなかった、ただの一度も・・・親や弟妹や妻や子どもらが待つ福島の八沢村に帰るのは、盆暮れの二回だけだった。

 昭和8年生まれの男が、昭和29年~昭和48年の高度成長期を生き、老年を上野公園でホームレスとして迎えます。高度成長は国民に富と生活の安定をもたらしたはずです。男に何があったのか?。
 48年間出稼ぎを続け、その間に21歳の長男を亡くし、男の帰郷を待っていたかのように、父親と母親は90歳を越えて天寿を全うし、妻は男が酔って寝ている間に隣の布団で亡くなります。

結婚して三十七年、ずっと出稼ぎで、妻の節子と一緒に暮らした日は全部合わせても一年もなかったと思う。節子は、二人の子を生み育て、歳の離れた弟たちを大学にやって、娘の洋子を嫁に出して、老いた両親の面倒をみながら野良に出て、その間にこつこつと貯金をしてくれていた。

 妻の貯金と年金で老後を故郷で暮らしてゆける。独りとなった男を案じ、孫娘が同居してくれることになります。男は21歳になったばかりの娘を自分の世話で家に縛るわけにはいかない、孫には孫に人生があると家を出ます。

〈突然いなくなって、すみません。おじいさんは東京へ行きます。この家にはもう戻りません。探さないでください。いつも、おいしい朝飯を作ってくれて、ありがとう〉

と書き置きを残し東京を向かいます。行く当ての無い男を東京で待っていたのは、上野公園でのホームレスの生活。そして「あの日」が訪れます。

 天皇
あの日は、ホームレスの間で「山狩り」と呼ばれる「特別清掃」が行われる日だった。天皇家の方々が博物館や美術館を観覧する前にコヤを畳み、公園の外に出なければならなかった。

男はロープ一本を隔てて天皇陛下と出会います。出会うではなく73歳の男が73歳の天皇を見たに過ぎませんが、昭和8年に生まれた73年間の男と天皇の人生が重なります。

自分と天皇皇后両陛下の間を隔てるものは、一本のロープしかない。飛び出して走り寄れば、大勢の警察官たちに取り押さえられるだろう、それでも、この姿を見てもらえるし、何か言えば聞いてもらえる。
なにか
なにを
声は、空っぽだった。
自分は、一直線に遠ざかる御料車に手を振っていた。

「あの日」とは2011年3月11日、東日本大震災の日です。男は、上野駅・山手線の2番ホームで、故郷を襲う津波を幻視します。
 大震災の災禍や復興が描かれるわけでもなく、男の転落の物語でもありません。まして天皇制云々などの話ではありませんが、昭和8年に生まれた男が刻んだ《生》が天皇という存在に収斂される様は、日本人と民族の根源的な何かを描いているのかも知れません。全米図書賞(翻訳部門)受賞作品だそうです。

タグ:読書
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:

丸谷才一 輝く日の宮 ⑦(2003講談社) [日記 (2022)]

輝く日の宮 (講談社文庫)
「輝く日の宮」はなぜ消えたのか?
 道長は、為時が献上した『源氏』を彰子に見せ、女房達はこれを争って読むようになります。おそらく女房のひとりが朗読し、彰子以下が聴くというかたちで広まり、写本も行われたことでしょう。
 彰子の女房のひ一人して側で朗読を聴く紫式部は、「桐壷」が終わり続いて「若紫」が朗読されるのを聴き「輝く日の宮」が消えていることに愕然とします、小説ではそういうことになっています。1007年のことだと作者は言います。
 『源氏』は評判がよく一条天皇まで夢中になり、道長は紫式部に貴重品の紙を渡し書き継がれます。

ときどきは宿下りして書くこともあつて、寛弘五年の末には(小説は)もうとうに光源氏が明石から都に帰つて来てゐる。それを道長は一巻づつ中宮に奉り、中宮は帝に差上げ……やがて写本が出まはる。ちようど連載小説のやうな仕組。

 「連載小説」とは面白いです。1008年5月末か6月はじめ、道長は中宮彰子の前に『源氏物語』があるのを見て、その席に居た紫式部をからかい和歌を詠みます。 7月に中宮・彰子は懐妊し、土御門邸(道長の邸)へ戻り。紫式部も随行。この頃、道長と紫式部の関係が生じます。

道長の歌は、  すきものと 名にしたてれば 見る人の をらですぐるは あらじとぞ思ふ
紫式部の返歌は、人にまだ 折られぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ

 道長は、梅の実が「酸きもの」と「好きもの」を掛けて、誰かが「手折ら」ずはにいないだろう、と詠みます。色好みの『源氏』を描くくらいだから、あんたも「好きもの」だろうと誘惑し、紫式部は、まだ人に手折られたことなどありませんのに、誰がその実を酸っぱいと言いふらしたのでしょう、と惚けます。この後、道長は紫式部の局の戸を叩き、水鶏(くいな)の歌の贈答と続くわけです。『紫式部日記』だと思います。
 道長と紫式部の関係は、

 女郎花(おみなえし) さかりの色を見るからに 露の分きける 身こそ知らるれ
(今を盛りと咲く女郎花の美しさを見ると、朝露の恵みにあづかれない身のあはれさが思ひ知らされます)
と、今朝まで道長に添臥ししてゐた若い女をねたむ(ねたむふりをする……ふりをして男への愛を示す)歌を詠むと、 「おや、早いね」と微笑して、硯を 所望 し、
 白露は 分きてもおかじ 女郎花 こころからにや 色の染むらん
(露が分け隔てなどするものですか。女郎花は心のありやう一つで色つぽくなりますよ)
と返歌を詠んだ。上手に言ひ返し、やきもちを慎しむほうがきれいに見えますよとユーモアに富む言ひ方でたしなめてゐる。

道長42歳、紫式部30~34歳、見事な大人の相聞歌です。そうした関係ですから、紫式部は、寝物語で道長に「輝く日の宮」が何故消えたかを問うたはずです、「あなたも天皇の妻を寝取ったのか?」くらいは言ったかもしれない。
 紫式部と道長の架空の会話となります。道長は「輝く日の宮」を消した理由を答えます、

物語がはじまつていきなり、あんな大変な事柄を書くのは、初心の作者には無理なことですよ。・・・あれぢや読者だつて困つてしまふ。どうしたらいいかと幾月も思案したあげく、あの妙案が浮んだ。取つてしまふといふ手。・・・古物語の一巻が散逸してゐるのはよくある。

道長には深謀遠慮があります、

すべてすぐれた典籍が 崇められ、讃へられつづけるためには、大きく謎をしつらへて 世々 の学者たちをいつまでも騒がせなければなりません。・・・この国のつづく限り、人々は「輝く日の宮」の巻の不思議を解かうと努めることでせう。その力くらべと骨折りが、この物語にいつそう陰翳を与へ、作の構へを重々しくし、姿に風格を加へるはず。

『源氏』のような物語には《謎》がある方がふさわしい。後世の人々はその謎解きをあれこれ考え、それは『源氏』という物語に陰影を加えるというのです。丸谷才一の推理ですが、読んでる方は「騙された」?。「輝く日の宮」が存在し消されたとすれば、犯人は『源氏』を世に出した道長というのが最も妥当な推理でしょう。本書の主人公は紫式部ではなく道長です。

「輝く日の宮」の再現
 「輝く日の宮」抜きで完結はしたものの、紫式部はやはりその巻を書きたいと願つてゐたにちがひない。

と、丸谷才一は大胆に「輝く日の宮」の再現を試みます。「輝く日の宮」には朝顔、六条御息所との馴れ初めが記されていた筈ですが、本命は藤壺との最初の関係。当然、2回目の逢う瀬に協力した藤壺の侍女・王命婦が初回もセッティングします。

あわてて傍らをおさぐりになると、そこには藤壺の女御があやめのやうに横たはり、すすり泣きしていらつしやる。

いきなり実事(と作者は表現します)が終わった後の情景です。後朝の歌まで創作します。

あかときの 枕にくやむ 泪かな 逢ふを限りと など誓ひてし 
(共寝のあとの暁、悔む泪が枕を濡らします、一度だけお逢ひすればもうそれでいいなどとどうして誓つたのかといふ後悔のせいで)とお詠みになると、消え入るやうなお声で、 
限りぞと 思ひたえなむ 逢ひ見てし 夢のなごりの 身をせむる闇 
(これでおしまひと思ひ切ることにしませう、共寝した夢心地のあとの 呵責 の闇のなかで)

丸谷センセイ、完全にノッてます。

若者(源氏)は女に導かれて、長くつづく濃い暗闇のなかを、そろそろと一足づつ歩みを運び、未来といふあや(危)ふくてあやしい、心いさみするもののなかへはいつてゆく。

王命婦の手引きで、源氏が藤壷の房に向かうところでEND。

 失われた「輝く日の宮」の謎解きミステリ。『源氏』裏には藤原道長がいたのです。道長は、栄華を極めた摂関政治の立役者ですが、『源氏物語』を世に出したこの1点において(編集者、素材提供者であったかどうかは別にして)、日本史上第一級の人物といえます。面白かったので、『紫式部日記』も読んでみます。(この項オシマイ)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:

丸谷才一 輝く日の宮 ⑥(2003講談社) [日記 (2022)]

輝く日の宮 (講談社文庫)
続きです。『源氏』の作者紫式部について考えてみます。

受領の娘
 紫式部の父親・藤原為時は、藤原家の傍流に生まれ、天皇に漢学を教える式部省の官僚です。歌人でもあり漢詩に長じ、藤原道長の催す漢詩の会のメンーバだった様です。式部省の後道長の推薦で越前守、越後守となった受領階級で、『後拾遺和歌集』『新古今和歌集』にも詩や歌が採用される文人です。紫式部は、この父親のもとで詩歌の教育を受けて育ったのでしょう。紫式部は受領階級の娘ということになります。

 受領の娘は成長すると、同階級の貴族と結婚するか、皇族や有力貴族に宮仕えします。彼女達が有力者の愛人となって男子を生めば、父親に出世の道が開かれるわけです。その典型が藤原道長で、娘・彰子が一条天皇の后となって男子を生んだことで(外戚)摂政となります。和泉式部も親王の愛人となって男子を生みますが、親王は早世しますから父親は受領止まり。和泉式部が敦道親王の愛人となれたのは美貌?と和歌。当時は妻問婚ですから、忍んでくる男性と歌の贈答があり、若い貴族の娘にとって歌は必須の教養。彼女達は、そのため古典を学び(本家取り)当意即妙に歌を詠めるように表現の訓練をします。和歌は彼らが階層を上昇する有力な手段です。これが受領階級の娘達が王朝文学の担い手となった要因でしょう。藤原道綱母、菅原孝標女、清少納言いずれも受領階級の娘です。

 紫式部は父為時とともに任地の越前に下ります。紫式部の生年は不明で970~978年と巾があり、為時が越前に行ったのが996年ですから18~26歳。便宜上、中をとって974年生まれとすれば22歳の時です。当時の男子の元服は12~15歳で、源氏は12歳で4歳年上の葵の上と結婚します。源氏は40歳で長寿の祝「四十賀」
を祝っていますから、当時の平均寿命は40~50歳?。紫式部は、20代半ばで999年に42~43歳の藤原宣孝と結婚します。19歳で結婚した和泉式部に比べるとずいぶん遅いです(再婚という説もあるそうです)。

源氏物語の成立
996(22歳頃):父為時、越前国守となり任地に同行
997(23歳):京に帰る
999(25歳):藤原宣孝と結婚
1000(26歳):長女賢子生まれる
1001(27歳):夫宣孝死去
 ↓ この間にa系執筆、為時が道長に『源氏』を見せる
1005(31歳):彰子の女房として出仕
1007(33歳):道長『源氏』流布させる
1008(34歳):道長と関係b系の執筆を始める、彰子懐妊
1010(36歳):この頃迄にa系+b系の『源氏』完成、『紫式部日記』を執筆
 『源氏物語』がどのように成立したのかは想像するほかありません。丸谷才一の想像では、父親の任地越前で物語の構想を得た、ということになっています。

 はじめての田舎 住 ひは佗しかつたらうし、北国の晩秋と冬は辛い。それに、うまく運ばなかつた縁談が心に傷を残してゐる。寂しさがつのつた。文才に富む娘が、花やかなものを空想し、豪奢なものに憧れるための条件が整つた。孤独や憂愁をそのままぢかに差出すのではなく、それを動力にして美しい世界、輝しいものを創造し、そのことの果てに悲しみや虚無を漂はせようとする方法を、都で生れ都で育つた娘は 鄙 にあつて模索してゐた。

 と想像するわけです。
 紫式部が道長の娘彰子の女房として出仕するのが1005年。道長が『源氏』を読んで紫式部を娘の女房に採用したとしたとすれば、1001年の宣孝死去から1005年の間に『源氏』は書き始められたことになります。離婚、再婚?、出産、夫との死別という人生の荒波に揉まれ、宮中の噂話をもとに『源氏』が執筆されます。a系が原初『源氏』、b系に道長の体験が反映されているすれば、b系は1008年以降に書かれたということになります。
screenshot_2014_05_05T23_05_52+0900.jpg

 紫式部は、父親と越前に行くまで京で育ちます。京では為時によって詩歌、古典を読む教育を受け、それなりの恋愛も経験している筈です。男が3日連続して通えば婚姻が成立する時代ですから、結婚をしたかも知れません。20代初めで父と共に越前に行き、華やかな都を懐かしんだ紫式部に『源氏』の構想が浮かんだとしても不思議はありません。式部省の官僚の家柄ですから、『伊勢物語』『竹取物語』『宇津保物語』あるいは『日本書紀』を読んでいたかも知れない。
 夫宣孝に死別し、徒然なるままに越前時代に構想した『源氏』を執筆します。これを読んだ為時は、漢詩仲間で時の権力・者道長に『源氏』を見せます。道長は紫式部の才能を見込んで娘彰子の女房取り立て、紙を与えて『源氏』を執筆させます。道長にとってのメリットは、『源氏』目当てに一条天皇が彰子の局に通って来ること。通って来れば彰子が皇太子を産む確率が上がり、道長は外戚として権力が振るえるわけです。

 1008年頃、道長と紫式部は男女の仲となり、道長は作家・紫式部の編集者として作品を批評し題材を提供します。寝物語で聞かされる道長の体験をもとにb系を執筆し、『源氏』の世評は高まります。1020年頃、『更級日記』の作者・菅原孝標娘は評判の『源氏』54帖を読んでいますから、その頃には写本として流布していたようです。
 『源氏』執筆と平行して、または脱稿後に『紫式部日記』を書きます。というのが、丸谷才一よる『源氏』の成立です。
 面白いので、もう一回だけ続きます。

nice!(5) 
共通テーマ:

丸谷才一 輝く日の宮 ⑤(2003講談社) [日記 (2022)]

輝く日の宮 (講談社文庫) 1.jpg



 続きです、いよいよ「輝く日の宮」を消し去った犯人探しが始まります。

紫式部 と 藤原道長
 「輝く日の宮」があったとして、誰が何のために消し去ったのか。作者の紫式部が自ら消したということは、物語の整合性から考えられませんから、誰かが消したか、誰かの指示で自ら取り下げたわけです。

ここは除いたほうがよいと忠告……批評……した読者がゐて、その人の意見になかば納得して……(紫式部は)従つたのではないでせうか。

 犯人は藤原道長だ!、という推理が展開されます。紫式部と道長の関係というのは面白いです。

雇用主
 道長は、紫式部を始め和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔など当代一流の才媛を娘・彰子(中宮)付きの女官として集めています。紫式部の父・藤原為時(漢詩を通じた友人)は道長のおかげで越前の国守になっているらしい。

召人(愛人)
 この時代は一夫多妻ですから、権力者は正妻の他何人も愛人(妾)を持つことができました。『尊卑分脈』には、「紫式部 是也源氏物語作者」「御堂関白道長」とあるそうです。『紫式部日記』に、誰かが忍んできて局の戸を叩いたが開けなかった、という記述があるそうで、これが道長です。戸を開けて貰えなかった道長は翌朝歌を送ります。

夜もすがら 水鶏(くいな) よりけになくなくぞ真木の戸口にたたきわびつる(何で戸を開けてくれなかったんだ!)

と歌を送り、紫式部は

ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑ開けてはいかにくやしからまし(あなたの情にほだされて開けたら、恋をして後々悔んだことでしょう)

と返します。その後は戸を開く関係になったのでしょう。1008年、彰子が土御門殿(道長邸)に里帰りしている時の出来事です。角田文衛によると、この時道長44歳、紫式部は37歳だそうです。

懐妊した娘の周囲を自分の勢力下の者で固めたい、そのためにはしっかり者の女中に手をつけて置くに限る、といふ策略があつた。それにもう一つ、評判の物語の作者は道長の召人(妻妾に準ずる同居者)だとしきりに取り沙汰されてゐる様子なのに何もしないのでは男の沽券にかかはる...

和泉式部にも手をつけていた?まさか。和泉式部は30代半ばに道長の側近・藤原保昌と再婚しています、たぶん道長の紹介で。

読者
 紫式部は1005年頃に道長の娘・彰子の女官となります。作者(丸谷才一)の推理では、父親の藤原為時が『源氏』を道長に献上し、これ読んで道長は紫式部を彰子の女官に取り立てたと推理します。『源氏』は完成していませんから、見せたのはa系列の桐壺 、輝く日の宮、若紫 、紅葉賀 、花宴、葵、辺り。その後、賢木→少女のa系列を連載小説のように書き継ぎ、宮中の女房たちは争って読むわけです。当然第一番目の読者は道長、そしていつの間にやら「輝く日の宮」は消えた!。

批評家
 『御堂関白記』を著し漢詩が巧み、紫式部をデビューさせた道長は、一流の批評家、編集者でもあったと思われます。

いはば連載小説のやうにして読むわけですから、たぶん寝物語にいろいろ読後感を口にするでせうね。あそこの筋の引っくり返し方は見事だったとか、あの人物描写はおもしろいとか。あれのモデルは誰それぢやないかなんてことも言つたでせう。道長は和歌も上手でしたし、それに漢詩人としても優秀で、文学的教養の豊かな人でした。

(雑誌の編集者のように)ベッドで『源氏』を編集した、妄想ですがありそうな話。

題材の提供者
道長が過去の自分の女性体験とか、友達から聞いた体験談とか、あるいはさらに友達の体験と称して自分の体験を語るとか、さういふこともあつたでせう。

道長には正室の他5人の「妻」がいますから、女性経験は豊富だったのです。例えば、

素姓 の知れない娘と知り合つたときの綺譚が巧みに語られる。・・・女の住ひは 陋巷 にあつて、隣家の物音がうるさいし、瓦屋根でも 檜皮 葺きでもない板屋根の隙間から枕もとに月の光が洩れ落ちる。その 真直 な白い線のせいで、ふと、今宵は八月十五夜と気づき、長く打ち捨ててある荒れた別荘へ連れ立つて赴いたところ、その出さきで女に頓死されたといふ一部始終を詳しく語つたのだ。

「夕顔」ですね。これを寝物語で聞いた紫式部は、

これだけの材料を寝物語でせっかく手に入れたのに、それきりはふって置くのは勿体ない。これを取入れれば光源氏が段違ひに颯爽と歩きまはるし、喜劇的な趣も備はるので、いい男がいつそう魅力を増す。
(見てきた様な話)こうして「帚木」以下のb系列が誕生します。道長は光源氏のモデルともいえます。では何故「輝く日の宮」は消えたのか?。

(紫式部は)ひよっとすると道長は、光源氏と同じやうに帝の后を寝取つたことがあつて、それで「輝く日の宮」を破棄させたのではないかといふ疑惑。

「雨夜のしなさだめ」で源氏が黙っていたのと同じです。「帚木」で源氏と藤壷の関係が匂わされていますから、ちょっと弱いです。いずれにしろ、紫式部と道長が男女の関係にあったとするなら、道長は得がたい情報提供者だったことでしょう。

紙の提供者
 『源氏物語』は四百字の原稿用紙に直すと大体、千八百枚になるそうです。当時は一枚に二百字書いたらしく、『源氏』全体で三千六百枚必要だつた。それに写本の紙を足すと膨大な紙数となります。当時紙は貴重品(遣唐使の貢物にするほど貴重品)で貴族でも反古の裏を使っていたようです。紫式部の周りで、三千六百枚の紙を調達できる財力を持つ者は道長を置いては他にいません。紙の話は説得力があります。続きます

nice!(7) 
共通テーマ: