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半藤一利 昭和史 1926-1945 ② 満州は日本の生命線 (平凡社) [日記 (2022)]

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー) 満州は日本の生命線
 昭和史の勉強、続きです。張作霖爆殺事件(昭和3年)で沈黙する天皇が作られ、統帥権干犯問題(昭和5年)で天皇を持ち出せば政治が介入できない聖域が出来上がった(魔法の杖)というのが、昭和史のスタートだったといのが前段でした。張作霖爆殺事件は日露戦争で獲得した満州の利権が絡みますから、昭和史は満州と共にあったと言ってもいいかも知れません。

 張作霖爆殺事件では、陸軍の謀略を暴こうとする天皇の側近、西園寺公望、牧野伸顕、鈴木貫太郎の3人が登場します。軍部の云う所謂君側の奸です。3人は2.26事件で標的となり、鈴木は重傷を負い、西園寺と牧野は辛くも難を逃れます。張作霖爆殺事件は後の5.15、2.26事件などのテロを準備したと言えそうです。

 張作霖爆殺事件の責任を取って河本大作が去り、代わって石原莞爾が作戦参謀として関東に赴任します。石原の唱えたのが『世界最終戦争論』。《第一次世界大戦が終わり、世界に平和が戻ったが、列強はいずれまた次の世界戦争を始める。日本は国力を蓄え、日本とアメリカが雌雄を決する最終戦争に備える》、というものです。
 石原は、昭和4年に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決案」を発表し、国力を蓄えるカギは満州であり、満州を発展させその富で戦力を整えよ、と説きます。これに呼応する形で関東軍は「満蒙領有計画」策定し、張作霖の後継である張学良を掃討して満州を軍事占領するという計画。参謀本部は「満蒙問題解決方策 大綱」(昭和6年)を作ります。石原の私案が国策となったわけです。

満州事変、割り箸は右へ転んだが・・・
 満州の軍事占領ですから、もっともな理由が必要です。関東軍の立てた計画は、張作霖爆殺事件と同様の南満州鉄道の爆破。またしても謀略です。このために、関東軍no.3板垣征四郎が軍事課長・永田鉄山、作戦部長・建川美次を東京に訪ねているそうですから、これはもう関東軍の作戦ではなく陸軍の作戦です。キナ臭さを感じた天皇は、陸相を呼んで軍規の粛正を命じ、陸相は作戦を中止させるために作戦部長・建川美次を関東軍に派遣します。中止命令が来ること知った板垣、石原等は論議を重ねますが、結論は出ず、

板垣が「こうなったら運を天にまかせて 割り箸 を立てて決めようじゃないか」──鉛筆でやったという説もありますが、ともかく右へ転んだら中止、左に転んだら決行、ということでやってみたら、右へ転んだらしいんです。

エンピツを転がすというのはテストの時よくあるわけですが、戦争を始める際に使うか!です。で、結局決行と決まり、建川が奉天に着くと、板垣は酒豪の建川を料亭に連れ込んで酔い潰してしまい作戦中止命令はウヤムヤ。板垣は建川の上をゆく酒豪だった様です。見ていたような話ですが、この辺りが半藤『昭和史』の面白いところ。

 9月18日22時頃、関東軍によって柳条湖付近の南満州鉄道が爆発されます。張作霖爆殺事件では不逞の中国人を使って犯行がバレたので、今回は関東軍自らが実行します。板垣は「張学良軍の攻撃である。奉天城、 北大営を攻撃せよ」と命令を下します。満州事変はすべては、板垣、石原等関東軍過激派の独断専行で始まります。「統帥権干犯」、陸軍刑法に基づけば死刑という立派な犯罪。当時の関東軍は兵力1万、一方の張学良軍は奉天だけでも2万、満州全土では25万という大軍。石原は、朝鮮軍(日本軍)に応援させるという手筈まで整えています。
 奉天と東京に電報が飛び交います。

深夜一時七分、陸軍中央に奉天発第二〇五号電が届きます。 「…… 暴戻 なる支那軍隊は満鉄線を破壊し、わが守備隊を襲い...」

午後六時ころ、金谷参謀総長からの電報が届きます。「 不拡大 方針 に確定した、軍の行動は必要度を越えることなかれ」 

この電報で関東軍司令官・本庄繁は心変わりします。「速やかに停戦するように、ハルビン進攻などもってのほか」というわけで、そう決めたら沢庵石の本庄は動きません。石原は気抜けして「ああ、わがこと 成らず」と 嘆息して畳 の上にひっくり返ったらしく、・・・すると板垣がむくと起き上がって、「石原、ハルビンがだめなら隣の 吉林省へ進軍してはどうか」と言うのです。このへんが板垣のすごいところで、これに応じて石原も起き上がり「そうか、吉林省は奉天を守るために確保する必要がある」と元気を取り戻します。

 吉林省で暴動が起きれば、邦人保護ために進軍が可能なります。吉林省は朝鮮と国境を接していますから、朝鮮軍の越境支援も容易です。これで作戦は息を吹き返し、関東軍司令官・本庄と陸軍参謀・建川の会談になります。関東軍の暴走を止めに行った建川は、ミイラ取りがミイラとなっています。沢庵石とあだ名される本庄はテコでも動かない。幕僚全員で談判に行くも本庄は動かず、石原は「これでおしまい」と全員帰ってきます。ひとりだけ帰らなかったのが板垣、板垣は本庄と黙ってニラメッコをして本庄のokを取ったそうです。

板垣という剛の者──この東北人は足の裏を針で刺したら三日たって「痛い」と言ったという話もあるくらいで──の 鈍重 にしてかつ 粘り強さによって、二十一日 未明、再び関東軍は息を吹き返したのです。

 1万人の関東軍でどうにもならず、朝鮮軍の応援が要ります。国境を越えて兵を動かすには天皇の裁可が必要ですが、天皇は拒否。朝鮮軍司令官・林銑十郎が独断で兵を動かします。21日午後、 朝鮮軍の兵隊1万人が一気に鴨緑江を越えて満州に入ります。統帥権干犯です。
 22日閣議が開かれ「柳条湖事件」を審議しますが、朝鮮軍が鴨緑江を越えたという報が入ると、若槻首相は「すでに入ってしまったのか。それならば仕方がない」と特別軍事予算が組まれる始末。

 天皇は「戦争の拡大はまかりならん、朝鮮軍の越境は認めない」と言いますが、若槻首相は「閣議が全員一致で決定し、越境した朝鮮軍に特別軍事予算をつけた」と奏上します。張作霖爆殺事件で、内閣が一致して決めてきたことについて天皇はノーと言わないことが慣例となりました。天皇はやむを得ないと、認可してしまいます。統帥権干犯として裁かれるべき暴発に予算が付くのです。

昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが、私の思いであります、とは著者の嘆き。続きます。

タグ:昭和史 読書
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絵日記 3月の庭 [日記 (2022)]

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桃                   木瓜
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シンビジュウム             ヒメリュウキンカ

 3月も下旬になるといろいろ咲きます。

・桃 →実生の花桃です。毎年咲きますが 、花桃ですから実は食べられません。
・ボケ →枯れかけていたのを鉢で養生、地植えして咲きました。
・シンビジュウム →普通は1~2月に咲くんですが...。
・ヒメリュウキンカ →太陽が上ると開花、沈むと萎みます。

タグ:絵日記
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半藤一利 昭和史 1926-1945 ① 張作霖爆殺事件、統帥権干犯問題 (2009平凡社) [日記 (2022)]

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー 671)  『漱石先生ぞな、もし』『日本のいちばん長い日』の著者で歴史探偵・半藤一利の「昭和史」です。

昭和史の根底には〝赤い夕陽の満州〟があった
 日露戦争(1904)の勝利によって、日本は旅順・大連を含む遼東半島の租借権、南満州鉄道と安奉鉄道の経営権と付随する炭鉱の採掘権と鉄道の安全を守るため軍隊の駐屯権を得ます。結果この地=満州は、1)鉄道を護るため軍隊が置かれ(後の関東軍)、2)石炭と鉄が豊富にあり、日本の資源供給地となり(但し石油は無かった)、3)膨張する人口の移民先となります。この3点が昭和史を大きく動かし、著者は「昭和史の根底には〝赤い夕陽の満州〟があった」「昭和史の諸条件は常に満州問題絡んで起こる」といいます。
 日韓併合(1910)、張作霖爆殺事件(1928)もこの満州の利権を守るためであり、日本は満州事変から満州国の建国、日中戦争、太平洋戦争へと踏み込んでいくわけです。

天皇陛下大いに怒る
 『昭和天皇独白録』と云う、天皇が側近に語った談話録があるそうです。『独白録』が「張作霖爆殺事件」(昭和3年)から始まる様に、昭和史はこの事件から幕を開けます。
 張作霖爆殺事件は、軍閥・張作霖を除き満州を日本軍の直接支配に置こうと、関東軍参謀の河本大佐が仕掛けた謀略です。天皇側近の西園寺はこれを見抜き、総理大臣の田中義一(元陸軍大将)に真相を糺しますが田中はのらりくらり。結局、軍法会議で罪を問うことなく、張作霖を守れなかったという行政処分で済ませてしまいます。河本は、軍法会議を開けば事件は陸軍の謀略だったとバラスと脅し、バラされれば陸軍は吹っ飛ぶ。田中は真相を明らかにせよという天皇の命を裏切ったわけです。

「田中は再び私の処にやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいという事であった。それでは前言と 甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。

 結局、田中の辞職で《張作霖爆殺事件》は決着しますが、この事件は(著者の云う)昭和史の「諸条件」のひとつになったと云います。陸軍を牽制しようとした西園寺公望は、内大臣の牧野伸顕、侍従長・鈴木貫太郎を誘って田中に圧力をかけたわけです。ところが西園寺は途中で日和ります。

「そんなことをしたらとんでもないことになる。天皇陛下自ら総理大臣に辞めろというなど、憲法上やってはいけないこと。賛成した覚えはない」

牧野は日記に、

「あまりの意外に 茫然自失、 驚愕 を禁ずるあたわず」 とあります。半分くらい腰を抜かしてしまって「そんな馬鹿な、これは大変だ」と粘りはするのですが、西園寺さんもゆずらない。理由を聞くと、「自分は 臆病 なり」と西園寺さんは言ったそうです。 

「今日は結局の帰着を見ずして公爵邸を 辞去 したり。三十余年の交際なるが今日の不調を演じたるは 未曾有 のことなり」

天皇や牧野伸顕の肉声が登場する辺りが半藤利一『昭和史』の面白いところです。張作霖爆殺事件は昭和史に何をもたらしたのか?、

昭和天皇が以後、内閣や軍部が一致して決めたことにノーを言わない、余計な発言をしないという立場を守り抜く、つまり「 君臨 すれども 統治 せず」、これが立憲君主国の君主のあり方だと自ら考えた。昭和史は常にここからはじまり、これがのちに日本があらぬ方向へ動き出す結果をもたらすのです。

魔法の杖
 もうひとつの「諸条件」が「統帥権干犯問題」、今度は海軍です。ロンドン海軍軍縮会議(昭和5、1930)で、戦艦の総トン数が7割に制限されます。これを軍令部が問題視します。海軍には、統帥(指揮)をあずかる軍令部と軍政を扱う海軍省があります。海軍大臣が会議に出席して勝手に削減を受け入れた、これは天皇の持つ統帥権を犯すものである、というわけです。海軍の統帥権は天皇にありますから海軍省が統帥権を犯したというわけです。天皇が絡みますから、海軍の偉いサンが大挙責任をとって辞職して決着します。つまり、天皇を持ち出せば軍部は政治に何でも言えるという「魔法の杖」(司馬遼太郎)を得たことになります。「魔法の杖」で政治を動かせると思いついたのは 北一輝だそうです。

 「張作霖爆殺事件」で天皇は政治に逆らえなくなり(沈黙する天皇)、「統帥権干犯問題」によって天皇を持ち出せば政治が介入できない聖域が出来上がります。満州の利権を護るという大義を掲げ、この2つを使って軍部が独走したのが昭和史だといいます。 続きます。

タグ:読書 昭和史
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ウッドデッキ 修理 [日記 (2022)]

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 DIYのウッドデッキを修理しました。我が家のウッドデッキは、屋根のある部分と雨ざらしの部分に分かれています。前者は3年に1回ほどペンキを塗る程度で、構造的にもしっかりしています。雨さらしの部分は木が腐って来たので、2x4ので組み直しました。1830mmm10本程度であれば、ホームセンターの軽トラを借りなくても車で運べます。2010年に作って、2017年に修理、今回は全面修理です。
 作成時は水性ペンキの2度塗りしましたが、今回は防腐剤を塗った上に水性ペンキの2度塗り。これで後5~7年は大丈夫?。

 ウッドデッキは便利です。デッキチェアを持ち出してビールを飲むと最高です。奥さんは洗濯物や布団を干しに重宝しています。最近では老犬のオシッコ場w。

ここまでの纏め
 ウッドデッキのページにはコンスタントに来訪頂いているようようです。

1)2x4材は腐食するので、専用の材料を使うのがベストですが、近くのホームセンターでは取り扱っていませんでした。2x4材だと5年程度で修理(腐食した部分の入れ換え)が必要です。屋根があって雨に晒されなければ、20年は大丈夫?。我が家は12年保っています。
 専用材は高額です。DIYのウッドデッキは、補修を前提に2x4材に防腐措置を施すのがコスト的にはよさそうです。

2)基礎はブロックを置いただけですが、安定しています。我が家の土地が粘土質のためかも知れません。ブロックが沈むまで2~3ヶ月待ちます。水平にならないときはガーデニング用の薄いタイルで調整します。水準器買いましたが、そこまでしなくとも。

3)防腐、防虫を謳ったペンキを使いましたが、不安なので防腐剤の下塗り+ペンキ2度塗り。→今回初めて防腐剤を使ったのですが、効果の程は?。

4)木ネジは錆びると外すのが困難なので、ステンレスネジを使っています。電動ドライバーは必須です。lowで間欠使用します。調子よく使うと、ガガガッとネジ山を潰します。電動ドライバーはドリルとしても使えますから、ひとつあれば、重宝します。こんな構造です。
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 ブロック2~3段の基礎の上にスノコ状のデッキを置いただけです。2x4の自重で十分安定しています。

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椎名 誠 漂流者は何を食べていたか(2021新潮選書)  [日記 (2022)]

漂流者は何を食べていたか (新潮選書)無人島に生きる十六人
大西洋漂流76日間 (ハヤカワ文庫NF)
 著者は、少年時代に『十五少年漂流記』を読んで「漂流記マニア」になったと云います。『十五少年漂流記』を胸劣らせて読んだ経験を持つ人は多いと思います。後年『おろしあ国酔夢譚』、『コン・ティキ号探検記』、吉村昭の『漂流』等を読みましたが、漂流ものは確かに面白い。漂流記の面白さは、極限状況の中で人間が示す知恵と勇気の面白さです。漂流記が成立するためには、漂流者が生きて帰還したからで、生き残るために何かを「食べ」たからです。本書は、この「何を食べていたか」に的を絞り、よく冷えた生ビールなどを飲みながら漂流記を読むというエッセーです。漂流記の影には、帰還できなかった幾万人の遭難者がいたわけですが。

究極の水分補給法
 漂流には、主に海、孤島、極地探検が行われるようになって南極などがあります。海では、漂流者は魚、カメ、海鳥などを食べるのが定番です。水は、海水を飲むわけにはいきませんから、雨水を貯めて飲みます。雨が降らなければどうするのか?。ドゥガル・ロバートソン『荒海からの生還』に瞠目の答えがあります。看護師のロバートソン夫人は、飲めない水(海水?)を肛門から注入し、つまり浣腸によって腸から水分を吸収するという処置を編みだします。初めて聴きました、凄い!の一言です。
 食の方は、この水分摂取法に比べるとオーソドックス。ボートに飛び込んだトビウオを食べ、安全ピンで作った釣り針でシイラを釣って食べます。南極になると、アザラシの生食、ペンギンのシチュー、ペンギンのステーキとなります。南極を目指し遭難したエンデュアランス号は、ソリを曳く犬まで食べます。

アザラシ肉は全身が食用に適している。その肝臓には繊細な味わいさえあり・・・まだ食料の量も種類も豊富だった頃でさえ、私たち全員が好んで肝臓を食べた。アザラシの脳みそは、アザラシ脂でフライにすると、やはり非常に美味だった。前ヒレは、中まで焼き上げると仔牛の脚肉に似た味だった。(『凍える海、極寒を24ヶ月間生き抜いた男たち』)

シロクマの肉も絶品らしく、読んでいてヨダレが出そうです。

漂流者の「暮らしの手帳」
 漂流者が死ぬのは、漂流して3日前後が多いらしい。水や食料より精神的に参ってしまうことで亡くなるようです。『大西洋漂流76日間』のスティーヴン・キャラハンは、襲い来る困難に立ち向かうのに忙しく絶望を感じる余裕すらなかったといいます。キャラハンの生き残る創意工夫は、さながら漂流者の『暮らしの手帳』だと著者は言います。
 キャラハンは万一を想定して大型救命ボート(ライフラフト)を用意しており、水、食料、釣り道具は勿論のこと、何と『シーサバイバル』なる本までボートに積んでいます。有り合わせの材料で「真水生成器」作り、水中銃のモリを修理し、鉛筆3本で六分儀を作り(どうやって?)、飛び魚の頭と尻尾でルアーを作りと、まるで漂流を楽しんでいるかのような書きっぷりです。漂流を楽しむわけはないのですが、困難を前向きに捉えるという気持ちが生還に繋がるのでしょう。この漂流記は読んでみたいです。

日本の漂流記
 日本の漂流記の白眉は何と言っても『北槎聞略』。紀州から江戸へ向かう途中で遭難し、シベリヤ、モスクワを経て9年の歳月をかけて日本に帰る大黒屋光太夫の漂流譚は感動します。明治32年の漂流記『無人島に生きる十六人』も面白いです(青空文庫にあります!)。この本については、本書に面白いエピソードが記されています。講談社の本が絶版となり、著者は講談社に残ったたった一冊をコピーして読んだといいます。あまりに面白いので新潮社の編集者に話したところ、なんと新潮社が出版したそうです。この漂流記が現在読めるのは著者のおかげです。
 海洋調査船「龍睡丸」がミッドウェ近海で遭難して無人島に漂着し、16人のオッサンが4ヶ月この無人島で暮らす漂流記です。16人はこんな掟を作って生き延びます。①(島で)手にはいるもので、くらして行く、②できない相談を言わない、③規律正しい生活をする、④愉快な生活を心がける。サバイバルという雰囲気ではなく、キャンプの延長のようです。極めつけは、アザラシを手なづけてペットにすることでしょう。

 『コン・ティキ号探検記』は映画化されていますが、映画長編ドキュメンタリー映画『Kon-Tiki』がnetにあります。

タグ:読書
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映画 隻眼の虎(2015韓国) [日記 (2022)]

隻眼の虎 [DVD] 原題:대호(大虎)。基本は猟師と伝説の「隻眼の虎」との死闘ですが、ちょっと変わった映画です。朝鮮半島に虎がいる?。そう言えば加藤清正の虎退治の伝説がありますから、いたんでしょう。検索すると、シベリアから中国東北部に生息するアムールトラのようです。

虎 vs. 日本軍
 舞台は、1925年、日本統治時代の朝鮮、智異山。全羅南道、北道、慶尚南道にまたがる山岳地帯で、標高1915mの智異山は韓国で2番目に高い山だそうです。この智異山に人を襲う虎が棲み、慶尚南道の日本軍が猟師団を使って虎退治を始めます。ナンデ軍が虎狩りするのか?。朝鮮を併合した日本は、道に配置された軍が警察権持っているわけで、人食い虎を駆除するのも仕事。

 猟師団では虎退治が出来ず、軍の出動となります。軍は「山の神」と呼ばれる隻眼の虎に翻弄され、多くの兵士が殺されます。この「日本兵」が虎に殺されるシーンが映画のハイライト。虎は朝鮮の象徴ですから、被征服者の朝鮮が征服者である日本を滅ぼすという構図かな?とも思うのですが、朝鮮は1910年に日本に併合されていますから、日本軍ではなく「朝鮮軍」で兵士は朝鮮人。朝鮮人の日本軍将校が登場しますから、ステレオタイプの「反日」映画というわけでは無さそう。智異山は「抵抗の地」だそうで、「甲午農民戦争では、蜂起した農民が山中にとどまり抵抗を続けたことで知られる。日韓併合に至る大韓帝国末期には、抗日闘争の拠点となった」そうですから、軍隊と闘う隻眼の虎は抵抗の象徴であることは確かです。
1.jpg 虎に例えた朝鮮半島
虎 vs. 猟師マンドク
 虎と闘う猟師のマンドク(チェ・ミンシク)がもうひとつのテーマ。朝鮮一の猟師と評判のマンドクは、事故で妻を射殺したため銃を捨て、今では薬草を採って息子と暮らしているという設定です。中盤で明かされますが、マンドクは猟師だった頃に子供を連れた母虎を殺したことがあります。マンドクは子供の虎を助け、自分で狩りが出来るまで獲物を運んでやります。その子供の虎が成長したのが「隻眼の虎」。映画の冒頭で、虎に出会ったマンドクが銃を空に向けて撃ち虎を追い払うシーンがあります。その裏には、こうした因縁があったわけです。
 マンドクの息子は、賞金のかかった虎を狩るために狩猟団に入り、虎に襲われて命を落とします。虎は息子の遺体をマンドクの小屋に運びます。子供の頃マンドクに助けられた恩に報いたわけでしょう。虎狩りで「隻眼の虎」のメスと子供が殺されています。息子を亡くしたマンドクは虎に語りかけます「お前も妻と子失って一人となったそうだな」と。虎は「決着をつけよう」とマンドクを誘い、智異山の山頂で闘い共に崖から転落して幕。虎とマンドクは闘う謂われないわけで、???。

 「虎と軍隊」、「虎と猟師」の2つのエピソードで、自然との「対立と共生」がテーマのようです。人を襲う虎を駆除しようという軍隊、肉親を虎に殺された猟師、虎を護ろうとするマンドクと、それなりによく出来ています。映画としては中途半端でそれほど面白くはありませんが、監督の意図に一票。日本軍人とマンドク等猟師たち、その上に虎が配置されたポスターが、何よりもこの映画を雄弁に物語っています。ちなみにこの日本軍人は大杉漣さんです。大杉漣を使うなら、もうちょっと工夫があってもよかった。

監督:パク・フンジョン
出演:チェ・ミンシクチョン、大杉漣

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服部文祥 サバイバル家族(2020中央公論) [日記 (2022)]

サバイバル家族
 テントも持たず食料は現地で調達する「サバイバル登山」というものがあるそうです。サバイバル登山家と呼ばれる服部文祥の家族ですから、サバイバル家族。サバイバル登山家の子育て日記です。表紙に描かれのは猟銃と哺乳瓶で、『サバイバル家族』を絵にすればこなります。著者と奥さんの馴れ初めから始まって、基本は長男、次男、長女の誕生と子育ての話です。

経験主義
 子供の誕生からしてワイルド。著者は「立合い出産」を選択します。産室で奥さんの手を握って、という夫婦愛ではなく、

とにかく、自分の遺伝子を受け継ぐ生き物が、自分の選んだ(そして私を選んでくれた)パートナーから出てくる瞬間をどうしても見たかった。

医者の目線で我子の誕生を「見る」のです。著者は登山家ですから、

登山とは経験主義をそのまま具現化した行為だ。死なない程度に苦労することで人は強くなっていく。無色透明で平坦な毎日を重ねるより、劇的な体験にともなう感情の起伏があった方が人生は楽しい。そう信じる夢見る合理主義者が、わざわざ危険な山に足を向けるのだ。

と考える経験主義が、我子の出産に立ち会う=「見る」行為となります。従って、子育ての中核をなすのも「経験」となります。

元服人力旅行
 服部家では、子供が小学6年生になると「元服人力旅行」の儀式が執り行われます。長男は、無理矢理学校を休ませ自転車で1週間の沖縄巡り。次男と長女の「元服」の儀式は凄まじいです。北海道日高山脈の避難小屋を起点に、エゾ鹿を撃ち(猟銃で撃つのは著者ですが)ニジマスを獲り、山に登るサバイバル登山。魚を釣って塩焼きにする位は出来るでしょうが、父親と一緒だとはいえ、小学6年生が鹿を解体するわけです。おまけに半径40kmに人ひとりいない原野ですから、父親が事故にでも遭えば自力で解決しなければならない。という状況での体験は、子供を卒業して大人の世界に足を踏み入れる元服の儀式に、まことに相応しい。

 著者の家ではニワトリを自家孵卵させて飼っています。当然オスも孵るわけですから、オスは若鳥に成長すると「締めて」鶏鍋になります。

モモタローを絞めるとき、秋は泣いていた。小雪(奥さん)も沈んでいた。だが、夕食の時間になると秋(長女)はもう元気になって、美味しそうにトリ鍋を食べていた。
「よく食べられるね」と小雪が言う。
可愛がって育てて、美味しく食べればいいんだよ」と秋が言った。

この親にしてこの子ありですが、こうした経験によって、子供達は鹿を解体して食べるというサバイバルが可能となった様です。

偏差値
 「一家言」を持った父親の教育と見えますが、長男が高校受験に失敗して著者の本音がチラリとのぞきます。ワイルドな「元服人力旅行」で子供に経験主義を教え込み「偏差値と人の魅力は関係ない」と考える著者も人の親。

勉強というカテゴリーで息子を否定されることは、まるで自分を否定されることに似ていた。できのよくない息子を、私自身がどこかで否定しているとしたら、私は息子を通して私自身を否定している。ここにへこみのスパイラルができ上がる。・・・「お前はダメだ」と切り離してしまえば、少なくとも自分は傷付かない。だがそんな台詞は何も産まない。それどころか最悪の一言だ。わかっているのだが……。

「父親」をやったことあるので(今でもいちおうやっている)よく分かります、著者も普通の父親。結局、息子と共にこの失敗を耐えること乗り越えることも人生の「サバイバル」なんでしょう。

 読む順番を間違えたようです。『サバイバル登山家』『ツンドラ・サバイバル』を読んで、服部文祥のサバイバルが分かって →『サバイバル家族』でしょうね。

1.jpg服部家の三兄妹、奥さんによるイラスト

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紫式部日記 ⑥ 御堂関白 道長 妾 (2009角川文庫) [日記 (2022)]

紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)
日本紀の御局
うちの上(一条天皇)の、源氏の物語人に読ませ給ひつつ聞こしめしけるに、「この人は日本紀をこそ読み給ふべけれ。まことに才あるべし」と、のたまはせけるを、ふと推しはかりに、「いみじうなん才がある」と、殿上人などに言ひちらして、「日本紀の御局」とぞつけたりける、いとをかしくぞ侍る。

左衛門の内待に「日本紀の御局」と悪口を言われたという、「自慢話」です。 何故「日本紀の御局」が悪口かというと、当時、漢文は男の使うもので、女性の読むものではないとされていたようです。漢文で書かれた『日本書紀』を読むような女性(紫式部)は「はしたない」というとになります。続いて、私の漢文素養は家で自然に身についたものだと書きます。父親が弟に漢文を教えている時、側で聞いて自然に憶えたもので、弟は憶えが悪かったので、父親は「お前が男であったなら」と嘆いたというのです。漢文の知識をひけらかす男は軽く見られますから、私は屏風に書かれた漢詩も分からない振りをしてきましたよと言うのです、よく言うw。
 ところが、彰子が私を召して『白紙文集』を詠ませるので、漢文に興味があるのだと思って、密かに漢文の手ほどきをします。これを知った道長は、彰子に漢籍の豪華本を献上します。最後に道長を持ってくることで左衛門の内待の悪口をひっくり返し、紫式部の教養が勝ちを制するというわけです。

まことにかう読ませ給ひなどすること、はたかのもの言ひの内侍は、え聞かざるべし。知りたらば、いかにそしり侍らむものと、すべて世の中、ことわざしげく、憂きものに侍りけり。

(現代語訳)それにしても、このように中宮様が私に漢文のご講義をおさせになっているなんていうこと、例の口うるさい内侍の車には入っていないのでしね。聞きつけたら、またどんなにこきおろすことでございましょう。何事につけても世の中とは、あれやこれやと噂が飛び交い面倒なものでございますわねぇ。

紫式部は、けっこう嫌味な女性です。

御堂関白道長妾
源氏の物語、御前にあるを、殿の御覧じて、例のすずろごとども出できたるついでに、梅の下に敷かれたる紙に書かせ給へる、

すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ

「人にまだ折られぬものを誰かこのすきものぞとは口ならしけむをめざましう」
と聞こゆ。
 道長は、彰子の局に源氏の物語が置かれているのを見て、「梅の実は酸っぱくて美味と知られるから、枝を折らずに見逃すものはいない」。『源氏物語』作者のアンタは「好きもの」と評判だ、口説かない男はおるまい、と言うので、
まあ、私には殿方の経験などまだございませんのに。どなたが好きものなどと噂をたてているのでしょう。
 ヌケヌケとよく言ったものです。紫式部と道長こう言った軽口を叩く仲だったわけでしょう。この段の後に

渡殿に寝たる夜、戸を叩く人ありと聞けど、おそろしさに、音もせで明かしたるつとめて、

夜もすがら 水鶏(くいな)よりけに なくなくぞ 真木の戸口 に叩きわびつる

ただならじとばかり叩く水鶏ゆゑ開けてはいかにくやしからまし。

翌朝、「戸を叩くのに似た鳴き声で水鶏は鳴くけれど、私はも泣きながら、あなたの戸口を一晩中叩いていたのですよ」という歌が届きます。紫式部は「ただ事ではないという叩き方でしたけれど、本当はところは出来心でしょう? 戸を開けでもたらどんなに後悔することになっていたやら」と返します。前段の道長の軽口から、戸を叩いたのは道長だと言っているようなものです。
紫式部とて、たとえこの夜は拒んだとしても、後日には受け入れたかもしれません。高貴な男性と浮名を流すことは女房にとって決して不名誉ではなく、むしろ誇れることでもありました。まして紫式部は夫もおらず、道長の思い人になることには何の支障もありません。いっぽう高貴な男性にとっても、艶福家の姿を文芸作品に書きとめられるのがひとつのつの誉れであった...

というわけです。丸谷才一によると、この時道長44歳、紫式部は37歳だそうです。室町時代の系図集『尊卑分脈』には、紫式部について「御堂関白道長妾云々」という注記が付けられている所以です。
 丸谷才一『輝く日の宮』と『紫式部日記』を読むと、紫式部その人より稀代の権力者、藤原道長という人物に惹かれます。光源氏のモデルが道長であっても、不思議ではありません。

備忘録・紫式部年譜
966頃:静少納言誕生
970年代中頃:紫式部誕生
978年頃:和泉式部誕生
  ↓
993:清少納言、定子に仕える
995:定子の父道隆死亡、道長が藤原一族の長となる(権力掌握)
996:父の越前守赴任に伴い下向、『源氏物語』を着想
997:藤原宣孝との結婚に向けて帰京
999~1000:結婚、娘賢子出産
1001:藤原宣孝死去
1002~:『源氏物語』を執筆開始
1005:彰子に宮仕え開始
1008:彰子懐妊。道長、彰子の出産記録執筆を命じる。一条天皇が『源氏物語』を読み評価。夏頃、彰子、紫式部を師に「新楽府」学習開始。7/16彰子、土御門殿に退出、『わ紫式部日記』記事この時期から始まる。9・11彰子、敦成親王出産。9・15日藤原道長、五日の産着の宴を催す。10・16一条天皇、土御門殿に行幸。11・01 五十日の儀。11月上旬、彰子、紫式部を係として『源氏』の冊子制作。
1009:彰子二度目の懐妊で土御門殿へ。和泉式部、彰子に仕える
1010:『紫式部日記』執筆、日記はこの年まで
1011:一条天皇、三条天皇に議位。
1016:敦成親王、後一条天皇に即位

 この項お終い。

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紫式部日記 ⑤ 和泉式部、清少納言(2009角川文庫) [日記 (2022)]

紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)
和泉式部日記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) 枕草子 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)








 続きです。
 紫式部の筆は、内裏の女房達の人物批評に続き、和泉式部清少納言(赤染衛門も)に移ります。紫式部、和泉式部、清少納言の平安時代の文学を代表するこの3人が、同じ時代の空気を吸っていたというのは(今思えば)凄いことです。和泉式部は1009年11月に彰子に仕え、紫式部にとっては同僚、かつ『和泉式部』と和歌の才能を見込んで道長がリクルートしたはずですから、和泉式部はライバル。
 一方の清少納言は、一条天皇の皇后で道長の兄藤原道隆の娘・定子の女房。定子は1001年に亡くなり、紫式部が彰子に仕えた1005年頃には清少納言は宮中を去っていますから、ふたりは女房同士として直接関係を持ったことは無さそうです。『枕草子』は1001年頃完成していますから、紫式部がこれを読んでライバル意識を燃やしたんでしょう。
 紫式部はライバル二人をどんな風に評したのか。
道長相関図.jpg藤原道長 相関図

和泉式部
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、 口にまかせたる言どもに、必ずをかしき一ふしの目にとまる詠み添へ侍り。それだに、人の詠みたらむ歌難じことわりゐたらむは、「いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめり」とぞ見えたるすじに侍るかし。「恥づかしげの歌よみや」とはおぼえ侍らず。

 1009年11月、和泉式部が彰子の元に出仕し、紫式部の同僚となります。その前年に『和泉式部日記』が執筆されていますから、紫式部はそれを読んでいたのかどうか?。いずれにしろ、和泉式部と為尊親王、敦道親王との恋愛は宮中では有名でしたから、「和泉はけしからぬかたこそあれ」と評するわけです。
 現代語訳すると、和泉式部という人は、歌を織り混ぜた名文を書く人ですがちょっと感心できない点があるようです。歌は、本当に見事ですが、和歌の知識や理論、本格派歌人の風格こそ見て取れないものの、口をついて出る言葉言葉の中に必ずはっとさせる一言が添えられています。

 とはいえ、彼女が人の歌を批判したり批評したりするという段になりますと、「いやそこまで頭でわかってはいますまい。思わず知らず口から歌のあふれ出るような天才型なのでしょう」とお見受けしますね。ですから「頭の下がるような歌人だわ」とは私は存じません。

と貶したり持ち上げたり忙しくライバル意識むき出しです。

清少納言
清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは・・・
清少納言は、得意顔でとんでもない人です。あそこまで利巧ぶって漢文を書き散らしていますけれど、よく見ればまだまだ足りない点が多い様です。彼女のように、 「わたしは人とは違っているんだ!」と自信過剰な人は、行く末はみっともない結果になってしまうものだ。

和泉式部の場合は誉めたり貶したりですが、清少納言ついては悪意が感じられます。彰子+紫式部(道長派) vs. 定子+清少納言(反道長派)と政治色のある書き方です。道長の権力掌握は済み、既に定子は亡くなって清少納言は宮中を去っていますから、殊更清少納言を貶める必要はないわけですが。小説家・紫式部は、清少納言が『枕草子』で評判を取っていることを「かたはら痛い」と思っていたのでしょう。この辺りを年表にすると、

  990:定子入内
  993:清少納言、定子に仕える
  995:定子の父道隆死亡、道長が藤原一族の長となる(権力掌握)
  996:定子の兄伊周、長徳の変で失脚
  999:定子、敦康親王(一条天皇嫡男)を出産、彰子入内
  1000:定子が皇后、彰子が中宮となる、定子死亡(清少納言、宮中を去る)
  1001:『枕草子』完成
  1002:『源氏物語』執筆開始
  1005:紫式部、彰子に仕える
  1008:彰子懐妊、道長が紫式部に『日記』執筆を命じる?、敦成親王出産
  1009:和泉式部、彰子に仕える

定子+清少納言の時代が終わって、彰子+紫式部の時代となるわけです。彰子に仕え、道長の支援の下で『源氏』を執筆している紫式部は、反道長派の清少納言については辛く、同僚である和泉式部については甘い点をつけます。


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紫式部日記 ④ 源氏物語の誕生 (2009角川文庫) [日記 (2022)]

紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫) 続きです。青文字の原文は読み飛ばして下さい。
源氏物語の誕生
年ごろつれづれに眺め明かし暮らしつつ・・・行く末の心細さはやるかたなきものから、はかなき物語などにつけてうち語らふ人、同じ心なるは、あはれに書きかはし、すこしけ遠き、便りどもを尋ねても言ひけるを、ただこれを様々にあへしらひ、そぞろごとにつれづれをば慰めつつ、世にあるべき人かずとは思はずながら、さしあたりて、恥づかし、いみじと思ひ知るかたばかり逃れたりしを、さも残ることなく思ひ知る身の憂かな。

 久々に実家に戻り過去を振り帰るシーンです。夫が亡くなってこの何年か、紫式部は娘を抱え将来に不安を覚えて暮らしてたようで。そんな中で「物語」について語り合える友達の存在が支えになったといいます。感想を手紙に書いてやり取りし、「物語」によって慰さめられ寂しさを紛らわして来たと書いています。
 この「物語」とは『竹取物語』『伊勢物語』『蜻蛉日記』でしょうか?。紫式部は『日本書紀』も読んでいたようなので『古事記』も含まれるかも知れません。読書で行く末の心細さはやるかたなき気持ちを紛らわしていたようです。父親の藤原為時は、越前守になる前は天皇に漢学を教える官僚でしたから、紫式部も漢学を学び、「物語」が手に入る環境だったのでしょう。物語を「読む」ことから次第に物語を「書く」ことを覚え、『源氏物語』が誕生します。

師走29日
師走の二十九日に参る。・・・
夜いたう更けにけり。(中宮は)御物忌におはしましければ、御前にも参らず、心細くてうち臥したるに、前なる人々の、 「内裏わたりはなほいと気配異なりけり。里にては、いまは寝なましものを、さもいざとき履のしげさかな」と、色めかしく言ひゐたるを聞く。

年春れて わが世ふけゆく 風の音に 心のうちの すさまじきかな


とぞ、ひとりごたれし。

師走の29日です。紫式部は一人心細く横になっています。「内裏はやっぱり違うわね。家だったら今頃は眠っている時刻なのに、殿方の靴音がひっきりなしで本当に寝付けやしない」女房たちが艶っぽい言い方で話すのが耳に入ります。妻問婚で一夫多妻の時代ですから、公達たちが女房の元を訪れるわけです。紫式部は30を越えた年増ですから、若い殿方の訪問はありません。後の段で、道長と思われる人物が局の戸をたたいた、とは書いていますが。そんな年の暮れに一首

年暮れて わが世ふけゆく 風の音に 心のうちの すさまじきかな
(現代語訳)年は暮れ、私の人生は更けてゆく。また一つ歳をとるのだ。吹きすさ ぶ風にさえ場違いと言われるようで、心の中はただ荒涼とするばかりだ。

 夫を亡くして頼る人も無く、一人娘を抱えて気遣いの多い宮仕え、式部の寂寥感が溢れています。

消息体
(現代語訳)このついでに女房たちの姿形をお話ししてお聞かせしたら、それはおしゃべりが過ぎることになりましょうか。現在の同僚のことは、まさか。顔を突き合わせてお勤めしている人のことは厄介ですもの。それに、「これはちょっとね…」などと、少しでも欠点のある人のことは、触れないでおきましょう。

同僚の女房たちの品定めが始まります。著者によると、この段は原文では急に「侍り」が多用され、「です、ます」のおしゃべり口調になったと言います。

これまでは基本的に日を追って出来事を記してきた書き方が突然随筆風に変わって、ここからは同僚女房の紹介、斎院女房の話を糸口にした彰子後宮への世評、有名な清少納言批判を含む三才女批評に及ぶまで、話題が次々と展開します。気を付けて読むと文末には「ございます」にあたる「侍り」が前に比べてずっと多くなっており、果てには「手紙には書けないことですが申し上げました」とか「読んだらお返しください」などと挨拶のような文章が現れます。つまりこの部分は、これまでの記録形式とは違い手紙文体で書かれているのです。そのため「消息(手紙文)体」と呼ばれています。

巻末の解説によると『紫式部日記』は、

 1)寛弘五年秋の彰子出産前から翌年正月三日までも記録
 2)消息体 「このついでに」に始まる消息(手紙文)体
 3) 年次不明の断片的エピソード
 4)寛弘七年元日から正月十五日までの後半記録部分

から成り立っているそうです。道長が紫式部に彰子出産のルポルタージュを書けと命じたとするなら、2),3)は余分な記述です。小説家、紫式部としては、宮中の様子を挿入することでルポにリアリティーを付けたかったのでしょうか。もっとも清少納言への批評はちょっと筆が滑った?。

 さてその女房たちです。「宰相の君」は、ふっくらとした美人で口許に艶っぽい印象がある。「小少将の君」は、上品で優雅で春二月の垂れ柳ような風情。若い女房では、「小大輔」は理知的で誰もが「素敵な人だ」と感じる今風の容貌。「源式部」は顔立ち端正、カワイイ感じのお嬢様風。若い貴族が放っておかず、内裏ではすぐ噂になるのようです。
 いずれも知性と教養、美貌を兼ね備えた選りすぐりの貴族の令嬢です。内裏の若い公達が争って通うので、「殿方の靴音がひっきりなしで本当に寝付けやしない(私には通ってくる男はいない)」という女房たちのぼやきとなるわけです。
 外見だけではもの足りないので、彼女たちの性格も語ってみせます、

(現代語訳)こんなふうに外見中心にあれこれ言って来ましたけれど、性格というと、これが本当に難しいものですわね。それも人それぞれ、ひどく悪い人もいません。また、抜群に素敵で、落ち着いていて、才覚も教養、風情も、仕事の能力も…などというと、全部持つのはまず難しいですわよね。十人十色、どの方のどの点をとりあげようかとずいぶん迷いますわ。あらまあ、本当に偉そうなことばかり言ってしまって恐縮です。
あからさまに書くわけにもいかないので適当にはぐらかせています。


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