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紫式部日記 ⑥ 御堂関白 道長 妾 (2009角川文庫) [日記 (2022)]

紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)
日本紀の御局
うちの上(一条天皇)の、源氏の物語人に読ませ給ひつつ聞こしめしけるに、「この人は日本紀をこそ読み給ふべけれ。まことに才あるべし」と、のたまはせけるを、ふと推しはかりに、「いみじうなん才がある」と、殿上人などに言ひちらして、「日本紀の御局」とぞつけたりける、いとをかしくぞ侍る。

左衛門の内待に「日本紀の御局」と悪口を言われたという、「自慢話」です。 何故「日本紀の御局」が悪口かというと、当時、漢文は男の使うもので、女性の読むものではないとされていたようです。漢文で書かれた『日本書紀』を読むような女性(紫式部)は「はしたない」というとになります。続いて、私の漢文素養は家で自然に身についたものだと書きます。父親が弟に漢文を教えている時、側で聞いて自然に憶えたもので、弟は憶えが悪かったので、父親は「お前が男であったなら」と嘆いたというのです。漢文の知識をひけらかす男は軽く見られますから、私は屏風に書かれた漢詩も分からない振りをしてきましたよと言うのです、よく言うw。
 ところが、彰子が私を召して『白紙文集』を詠ませるので、漢文に興味があるのだと思って、密かに漢文の手ほどきをします。これを知った道長は、彰子に漢籍の豪華本を献上します。最後に道長を持ってくることで左衛門の内待の悪口をひっくり返し、紫式部の教養が勝ちを制するというわけです。

まことにかう読ませ給ひなどすること、はたかのもの言ひの内侍は、え聞かざるべし。知りたらば、いかにそしり侍らむものと、すべて世の中、ことわざしげく、憂きものに侍りけり。

(現代語訳)それにしても、このように中宮様が私に漢文のご講義をおさせになっているなんていうこと、例の口うるさい内侍の車には入っていないのでしね。聞きつけたら、またどんなにこきおろすことでございましょう。何事につけても世の中とは、あれやこれやと噂が飛び交い面倒なものでございますわねぇ。

紫式部は、けっこう嫌味な女性です。

御堂関白道長妾
源氏の物語、御前にあるを、殿の御覧じて、例のすずろごとども出できたるついでに、梅の下に敷かれたる紙に書かせ給へる、

すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ

「人にまだ折られぬものを誰かこのすきものぞとは口ならしけむをめざましう」
と聞こゆ。
 道長は、彰子の局に源氏の物語が置かれているのを見て、「梅の実は酸っぱくて美味と知られるから、枝を折らずに見逃すものはいない」。『源氏物語』作者のアンタは「好きもの」と評判だ、口説かない男はおるまい、と言うので、
まあ、私には殿方の経験などまだございませんのに。どなたが好きものなどと噂をたてているのでしょう。
 ヌケヌケとよく言ったものです。紫式部と道長こう言った軽口を叩く仲だったわけでしょう。この段の後に

渡殿に寝たる夜、戸を叩く人ありと聞けど、おそろしさに、音もせで明かしたるつとめて、

夜もすがら 水鶏(くいな)よりけに なくなくぞ 真木の戸口 に叩きわびつる

ただならじとばかり叩く水鶏ゆゑ開けてはいかにくやしからまし。

翌朝、「戸を叩くのに似た鳴き声で水鶏は鳴くけれど、私はも泣きながら、あなたの戸口を一晩中叩いていたのですよ」という歌が届きます。紫式部は「ただ事ではないという叩き方でしたけれど、本当はところは出来心でしょう? 戸を開けでもたらどんなに後悔することになっていたやら」と返します。前段の道長の軽口から、戸を叩いたのは道長だと言っているようなものです。
紫式部とて、たとえこの夜は拒んだとしても、後日には受け入れたかもしれません。高貴な男性と浮名を流すことは女房にとって決して不名誉ではなく、むしろ誇れることでもありました。まして紫式部は夫もおらず、道長の思い人になることには何の支障もありません。いっぽう高貴な男性にとっても、艶福家の姿を文芸作品に書きとめられるのがひとつのつの誉れであった...

というわけです。丸谷才一によると、この時道長44歳、紫式部は37歳だそうです。室町時代の系図集『尊卑分脈』には、紫式部について「御堂関白道長妾云々」という注記が付けられている所以です。
 丸谷才一『輝く日の宮』と『紫式部日記』を読むと、紫式部その人より稀代の権力者、藤原道長という人物に惹かれます。光源氏のモデルが道長であっても、不思議ではありません。

備忘録・紫式部年譜
966頃:静少納言誕生
970年代中頃:紫式部誕生
978年頃:和泉式部誕生
  ↓
993:清少納言、定子に仕える
995:定子の父道隆死亡、道長が藤原一族の長となる(権力掌握)
996:父の越前守赴任に伴い下向、『源氏物語』を着想
997:藤原宣孝との結婚に向けて帰京
999~1000:結婚、娘賢子出産
1001:藤原宣孝死去
1002~:『源氏物語』を執筆開始
1005:彰子に宮仕え開始
1008:彰子懐妊。道長、彰子の出産記録執筆を命じる。一条天皇が『源氏物語』を読み評価。夏頃、彰子、紫式部を師に「新楽府」学習開始。7/16彰子、土御門殿に退出、『わ紫式部日記』記事この時期から始まる。9・11彰子、敦成親王出産。9・15日藤原道長、五日の産着の宴を催す。10・16一条天皇、土御門殿に行幸。11・01 五十日の儀。11月上旬、彰子、紫式部を係として『源氏』の冊子制作。
1009:彰子二度目の懐妊で土御門殿へ。和泉式部、彰子に仕える
1010:『紫式部日記』執筆、日記はこの年まで
1011:一条天皇、三条天皇に議位。
1016:敦成親王、後一条天皇に即位

 この項お終い。

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