紫式部日記 ⑤ 和泉式部、清少納言(2009角川文庫) [日記 (2022)]
続きです。
紫式部の筆は、内裏の女房達の人物批評に続き、和泉式部、清少納言(赤染衛門も)に移ります。紫式部、和泉式部、清少納言の平安時代の文学を代表するこの3人が、同じ時代の空気を吸っていたというのは(今思えば)凄いことです。和泉式部は1009年11月に彰子に仕え、紫式部にとっては同僚、かつ『和泉式部』と和歌の才能を見込んで道長がリクルートしたはずですから、和泉式部はライバル。
紫式部の筆は、内裏の女房達の人物批評に続き、和泉式部、清少納言(赤染衛門も)に移ります。紫式部、和泉式部、清少納言の平安時代の文学を代表するこの3人が、同じ時代の空気を吸っていたというのは(今思えば)凄いことです。和泉式部は1009年11月に彰子に仕え、紫式部にとっては同僚、かつ『和泉式部』と和歌の才能を見込んで道長がリクルートしたはずですから、和泉式部はライバル。
一方の清少納言は、一条天皇の皇后で道長の兄藤原道隆の娘・定子の女房。定子は1001年に亡くなり、紫式部が彰子に仕えた1005年頃には清少納言は宮中を去っていますから、ふたりは女房同士として直接関係を持ったことは無さそうです。『枕草子』は1001年頃完成していますから、紫式部がこれを読んでライバル意識を燃やしたんでしょう。
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、 口にまかせたる言どもに、必ずをかしき一ふしの目にとまる詠み添へ侍り。それだに、人の詠みたらむ歌難じことわりゐたらむは、「いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめり」とぞ見えたるすじに侍るかし。「恥づかしげの歌よみや」とはおぼえ侍らず。
1009年11月、和泉式部が彰子の元に出仕し、紫式部の同僚となります。その前年に『和泉式部日記』が執筆されていますから、紫式部はそれを読んでいたのかどうか?。いずれにしろ、和泉式部と為尊親王、敦道親王との恋愛は宮中では有名でしたから、「和泉はけしからぬかたこそあれ」と評するわけです。
1009年11月、和泉式部が彰子の元に出仕し、紫式部の同僚となります。その前年に『和泉式部日記』が執筆されていますから、紫式部はそれを読んでいたのかどうか?。いずれにしろ、和泉式部と為尊親王、敦道親王との恋愛は宮中では有名でしたから、「和泉はけしからぬかたこそあれ」と評するわけです。
現代語訳すると、和泉式部という人は、歌を織り混ぜた名文を書く人ですがちょっと感心できない点があるようです。歌は、本当に見事ですが、和歌の知識や理論、本格派歌人の風格こそ見て取れないものの、口をついて出る言葉言葉の中に必ずはっとさせる一言が添えられています。
とはいえ、彼女が人の歌を批判したり批評したりするという段になりますと、「いやそこまで頭でわかってはいますまい。思わず知らず口から歌のあふれ出るような天才型なのでしょう」とお見受けしますね。ですから「頭の下がるような歌人だわ」とは私は存じません。
と貶したり持ち上げたり忙しくライバル意識むき出しです。
清少納言
とはいえ、彼女が人の歌を批判したり批評したりするという段になりますと、「いやそこまで頭でわかってはいますまい。思わず知らず口から歌のあふれ出るような天才型なのでしょう」とお見受けしますね。ですから「頭の下がるような歌人だわ」とは私は存じません。
と貶したり持ち上げたり忙しくライバル意識むき出しです。
清少納言
清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは・・・
清少納言は、得意顔でとんでもない人です。あそこまで利巧ぶって漢文を書き散らしていますけれど、よく見ればまだまだ足りない点が多い様です。彼女のように、 「わたしは人とは違っているんだ!」と自信過剰な人は、行く末はみっともない結果になってしまうものだ。
和泉式部の場合は誉めたり貶したりですが、清少納言ついては悪意が感じられます。彰子+紫式部(道長派) vs. 定子+清少納言(反道長派)と政治色のある書き方です。道長の権力掌握は済み、既に定子は亡くなって清少納言は宮中を去っていますから、殊更清少納言を貶める必要はないわけですが。小説家・紫式部は、清少納言が『枕草子』で評判を取っていることを「かたはら痛い」と思っていたのでしょう。この辺りを年表にすると、
990:定子入内
和泉式部の場合は誉めたり貶したりですが、清少納言ついては悪意が感じられます。彰子+紫式部(道長派) vs. 定子+清少納言(反道長派)と政治色のある書き方です。道長の権力掌握は済み、既に定子は亡くなって清少納言は宮中を去っていますから、殊更清少納言を貶める必要はないわけですが。小説家・紫式部は、清少納言が『枕草子』で評判を取っていることを「かたはら痛い」と思っていたのでしょう。この辺りを年表にすると、
990:定子入内
993:清少納言、定子に仕える
995:定子の父道隆死亡、道長が藤原一族の長となる(権力掌握)
996:定子の兄伊周、長徳の変で失脚
999:定子、敦康親王(一条天皇嫡男)を出産、彰子入内
1000:定子が皇后、彰子が中宮となる、定子死亡(清少納言、宮中を去る)
1001:『枕草子』完成
1002:『源氏物語』執筆開始
1005:紫式部、彰子に仕える
1008:彰子懐妊、道長が紫式部に『日記』執筆を命じる?、敦成親王出産
1009:和泉式部、彰子に仕える
定子+清少納言の時代が終わって、彰子+紫式部の時代となるわけです。彰子に仕え、道長の支援の下で『源氏』を執筆している紫式部は、反道長派の清少納言については辛く、同僚である和泉式部については甘い点をつけます。
定子+清少納言の時代が終わって、彰子+紫式部の時代となるわけです。彰子に仕え、道長の支援の下で『源氏』を執筆している紫式部は、反道長派の清少納言については辛く、同僚である和泉式部については甘い点をつけます。
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