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紫式部日記 ② 紫式部と道長 (2009角川文庫) [日記 (2022)]

紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)
絵巻.jpg 紫式部を訪ねる道長
紫式部と道長
 続きです。道長が紫式部の部屋の側を通りかかります。道長は式部に気づくと、付近に咲いている女郎花(おみなえし)を一枝折って几帳の上から差し出し、歌を所望します。式部は、化粧もしていない寝起きの顔ですから恥ずかしいわけです。

 女郎花 さかりの色を 見るからに 露の分きける 身こそ知らるれ

現代語訳:美しい女郎花。秋の露が花をこんなにきれいにしたのですね。これを見るにつけても、露の恵みを受けられず、美しくはなれなかったわが姿が恥ずかしく思われます

道長は硯を所望して返歌、
 白露は 分きても置かじ 女郎花 心からにや 色の染むらむ

現代語訳:白露はどこにでも降りる。その恵みに分け隔てなどありはしない、女郎花は、自分の美しくあろうとする心によって染まっているのだ
偶然通りかかったのかどうかは?。女郎花は、「戯れの恋の相手」を意味するそうですから、道長が紫式部にモーションを掛けたとも、紫式部は時の権力者に言い寄られたことをちょっと自慢したかった、そんな下りでしょう。女郎花は秋の花です。彰子が土御門殿に帰ったのは7/16ですから、8月頃のエピソードです。

彰子の出産
 彰子は無事男子(敦成親王)を出産します。一条天皇には定子との間に嫡男・敦康親王がいます。定子が亡くなったので、敦康親王を彰子育てさせ、外戚になるための保険をかけています。そんな折、孫の敦成親王が誕生したのですから、道長は小躍りしたことでしょう。その辺りの道長を式部はどう日記に書いているのか。

いつものように渡廊下の局から見やると、妻戸の前には中宮の大夫や東宮の大夫その他といった公卿がたが大勢つめていらっしゃる。そこへ道長様もお出ましになり、ここ数日落ち葉などで埋もれていた遣水の掃除を指図なさる。人々は心地よさそうな様子だ。たとえ内心に悩みを抱えている人でも、今だけはこの場の空気に気が紛れてしまいそうだ。中でも中宮の大夫は、ことさら得意満面に微笑んでいるわけでもないが、人一倍嬉しい
心の内が自然に表情に表れるのも無理はない。右の宰相の中将権中納言とふざけながら東の対屋の簀子に座っていらっしゃる。

 現れた道長は遣水(やりみず、庭園の水路)の掃除を指図します。内心の喜びを隠しています。小躍りしているのは彰子付きの中宮の大夫で、式部は道長の心境を中宮の大夫に仮託して描いたわけです。「内心に悩みを抱えている人」とは、東の対屋でふざけている右の宰相の中将(道長の故長兄の息子・兼隆)と権中納言(道長の故次兄の息子・隆家)でいずれ道長の甥。この情景は、

 ・娘が親王を産み外戚という権力への道を手に入れた道長
 ・自分達が推す敦康親王が皇位に着く可能性が狭まった(道長に従わなければならない)兼隆、隆家

という藤原家の権力構造が現れる象徴的情景です。著者は、

このように紫式部は、それぞれの立場の人々の、その立場を象徴するような姿を的確にとらえて書き留めています。彼女の眼ははっきりと政治を見極め、その中で様々の思惑を抱く人々を見ているのです。

 『紫式部日記』は、1008年(寛弘5年)秋~1010年(寛弘7年)正月までの2年足らずの日記です。『和泉式部日記』も1003年(長保5年)4月~12月までの 9ヶ月の日記。『蜻蛉日記』954年~974年の20年間、『更級日記』は1020年~1059年の約40年間、性格は違いますが『御堂関白記』は998年~1021年の23年間と、いずれも長期にわたる日記です。
 和泉式部は、宮中で非難された敦道親王との恋の真実を、世に知らしめる目的で『和泉式部日記』を書いたとするなら、2年という期間限定の『紫式部日記』にも、目的があったはずです。その2年間の出来事は彰子の敦成、敦良親王出産ですから、『日記』は彰子の親王出産のルポルタージュだといえます。『源氏』の執筆に忙しい紫式部にルポルタージュを書く動機は小さいですから、誰かが式部に依頼したと考えられます。彰子の父親、道長でしょう。 続きます。


タグ:読書
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