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嵐山光三郎 悪党芭蕉 [日記(2015)]

悪党芭蕉 (新潮文庫)
 嵐山光三郎は『文人悪食』を読んですっかりファンになり、『文人暴食』『追悼の達人』に続いて『悪党芭蕉』。いずれも、したり顔の文人の仮面を引き剥がす痛快な本です。今度は、俳聖・芭蕉の仮面を引き剥がします。

 芭蕉と云うと超俗の「枯淡」というイメージですが、芭蕉隠密説もあり、なかなか一筋縄ではいかない人物だったという本です。タイトルがタイトルですから、芭蕉の裏の顔を期待していたのですが、俳句の分析から蕉門と芭蕉を取り巻く人々の関係を炙り出し、その実像に迫ろうと云う意欲作です。

【両刀使い】
 芭蕉は伊賀上野の産。苗字帯刀は許されているが貧しい百姓同然の家に生まれています。藤堂良忠(蝉吟)に料理人として仕え、良忠の寵童だったようです。その頃は別に珍しいことではなかったようですが、芭蕉が同性愛!というのはギョッとします。 ふたりの関係を俳句(相聞歌の様なもの)から実証しています。紀行文『笈の小文』は、同性愛の相手との愛の逃避行だそうで、芭蕉には妾(と言っても本妻はない)もいたそうですから、両刀使いということになります。

 と言う下世話な話で引き付けておいて、この本の本当の凄さ面白さは、芭蕉と芭蕉を取り巻く弟子たちの確執、「元禄俳諧三国志」です。

【俳諧興行師】
 芭蕉は俳句の宗匠として生活しています。『奥の細道』の序文にある「住る方は人に譲り、杉風が別墅に移る」の杉風(さんぷう)は幕府御用達の魚問屋で江戸における芭蕉のパトロン。芭蕉庵を建てて貰っています。

 去来は京都のパトロン、落柿舎のオーナーです。現在の落柿舎は世捨て人の隠棲にふさわしい質素な建物ですが、芭蕉の滞在した当時の落柿舎は敷地千坪の豪邸だったそうです。芭蕉は、京都滞在中は、去来の丸抱えで生活しています。こういったパトロンが江戸、京都の他大阪、名古屋、近江、金沢等地方都市にもいますから、「日々旅にして旅を栖とす」ることができたわけです。

 芭蕉は、俳諧興行師として句会を主催し、弟子に句集を編ませて出版し、そこから上がる収入で生活しています。俳句の宗匠として生活が成り立つほどに、元禄の大都市は俳句が盛んだったようです。点取俳諧という俳句の競技会のようなものもあり、其角などは優劣を判定する点者としてけっこうな収入があったとか。この其角を主人公にすれば面白い小説が出来上がるほどの、破天荒な人物です。
 俳諧賭博というものまであり、五七五の七五を披露して上五句を当てるというものです。光三郎先生によれば、文芸がギャンブルの対象となったのは世界広しといえど、江戸元禄期だけだそうです。

 もっとも、芭蕉はこのような風潮には批判的で、点者とはならなかったようです。ギャンブルはとりあえず、俳句が金になるという現象は、現在の○○文学賞に賞金が出て、その選考委員の先生方に金が支払われていることと同じ話です。
 著者によれば、文芸ヤクザの頂点にいたのが芭蕉だそうです。

【俳諧連歌(連句)】
 俳句というと例の五七五ですが、これは俳諧連歌の発句が独立したもので、本来の俳句、俳諧は、数人の俳人によって五七五、七七を36回続けて詠む集団文芸です(著者は「歌仙」と書いています)。つまり、五七五、七七18回でひとつの物語を創作するわけです。この歌仙は、俳人がすまして俳句を読む文芸サークルかというととんでもない話。芭蕉一党の中で、利害得失、俳人としての地位と実力を賭けての真剣勝負です。

歌仙は遊びでありつつ勝負であり、句の流れを見て、場の気配に応じつつ自在につくりあげていかねばならない。
卓球になぞらえて
いくら打ちやすい球を出しても、相手が下手だと返しそこねる。打ちやすい球だから、直球に打ち返してくるものもいるし、切ってカーブをつけてくる者もいる。

 言葉によるラリーの応酬のようなものです。芭蕉最後の旅となった大阪での歌仙は、この豪速球とカーブの投げ合いです。この大阪行き自体が、弟子の洒堂と之堂の喧嘩の仲裁というもので、喧嘩の当事者が入った歌仙ですから、皮肉ありアテコスリあり非難あり、もう「俳諧連歌」というよりケンカそのもの。喧嘩を光三郎先生の解説付きで読むわけですから、これはサッカーの試合を見ている気分です。

 さすが光三郎センセイ、詩心など薬にしたくても無い私でも面白いです。「軽み」などブンガク的な話題もありますが、よく分かりません(笑。図書館で借りたのですが、これは蔵書ものです。

タグ:読書
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