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呉 善花 韓国を蝕む儒教の怨念 恨嘆文化 (小学館新書2019) [日記 (2020)]

韓国を蝕む儒教の怨念: 反日は永久に終わらない (小学館新書) 文在寅大統領の顔写真と「だからダメなんだ」と謳う本の帯は、土下座する安倍首相の像と同じ様なもので、いかにも嫌韓読者に媚びるようでどちらも品格に欠けます。
 『親日派のための弁明』の著者・金完燮氏は、閔妃の子孫に名誉毀損で訴えられ罰金刑を受けたといいます。閔妃という100年以上前の歴史上の人物が訴訟の要件となるという法理論と、反日であればすべての無理は通ることに驚きます。「親日称賛禁止法」が通れば、この『親日派のための弁明』などの親日の書籍はすべて処罰の対象となるでしょう。何しろ「法の不遡及の原則」が通用しない国ですから。ことほどさように韓国という国は本当に面白い。日韓併合という歴史が禍しているにしても、こと日本が絡むと何故かくまで激しい反応を示すのか?。その根底には何があるのか?。

 目次は、
序章:韓国を祟る李朝の亡霊
第1章:徴用工・慰安婦問題の核心
第2章:自己中心主義民族の情と理
第3章:「虚言癖-盗用癖」の民族病理
第4章:権力闘争明け暮れる国家・社会
第5章:強固な理念主義と愚民政策
第6章:恨嘆文化と火病社会

恨嘆文化
 面白いのは第6章の「恨嘆文化」。文字どおり恨み嘆くこと。韓国は「恨」の文化だとよく言われます。この恨ついての考察で、元韓国人(著者は日本に帰化)ならではの踏み込んだ考察です。

恨は単なる「うらみ」の情ではなく、達成したいのに達成できない自分の内部に生まれるある種の「くやしさ」に発しています。一般的にはそれが自分に対する「嘆き」として表され、具体的な対象をもつとそれが「うらみ」として表され、相手に激しく恨をぶつけることになっていきます。

これ、「駄々っ子」の理屈です。また、親しい者同士で、自分の置かれた環境がいかに不幸なものかということを嘆く「恨嘆」という習慣があるそうです。

韓国では何事につけても、加害者は悪なる者であり、被害者は善なる者です。ですから、何かの対立があれば、多くの韓国人が被害者の位置に立ちたがります。・・・「自分のほうがあなたよりもっと被害者=善なる者だ」

今度は不幸の比べっこ、不幸自慢で、恨嘆によって癒されるというわけです。恨嘆は、伝統的な歌謡では「打令」として演じられます。

「身世打令」というのがあります。これは自分の不幸な身の上や運命の歌物語のようなもので、半分は節をつけて歌い、半分は物語るようにして演ずるものです。打玲のルーツは。何かというと、朝鮮半島南部のムーダン(巫女=女性シャーマン)がクッ(祭儀)の際に踊りながら演じる巫歌・祈禱歌です。それらの歌のなかの、支配権力者たちの理不尽な圧服に耐えていく庶民の悲憤・嘆きを表現したものが「打令」であり、自分の身の上を嘆く表現が「身世打令」です。

 ムーダンは神がかり状態のなかで、自分がどれほど不幸な立場に置かれているのか、私の人生はなぜこんなにも悲しいのかと嘆くのだそうです。この恨は、身世打令を経てパンソリとなりユネスコの無形文化遺産に登録されますから、恨は立派な文化です。恨みですから恨む相手があるわけです。「恨の文化」は恨みを向ける相手とワンセットになっているわけです。そうした心情の典型を朝鮮の伝統歌謡「アリラン」にみることができるといいます。アリランは、男に捨てられた女の恨みと嘆きを歌ったものであり、また恨を解き放ってゆく喜びを歌った「恨解の歌」だといいます。

恨があるからこそ強く生きられる、恨をバネに生きることができるというように、本来は未来への希望のために強くもとうとするのが恨です。そうして生きていくなかで恨を消していくことを、韓国人は一般に「恨を 解す」あるいは「恨を解く」と表現します。恨みに恨んだ末に恨が解けていくことを、大きな喜びとする文化は韓国に特有のものです。

恨と恨を解くというのが韓国人の心性に大きな比重を占めているようです。恨の裏側には、「自分はなんの罪もない、清く正しい善なる者なのに、誰(何)かのせいで自分は恵まれずに不幸だ」と考えて自己正当化と恨む相手「誰か」が存在することになります。恨みの矛先を向けられた相手こそいい迷惑です。韓国人が、自分の不幸を嘆いてみせるときに特徴的なことがあります。それは、

このように、自分を清く正しい善なる者と装う人たちは、人間ならば誰もが内部に抱えている不道徳性とか反秩序性といった破壊的な力を、自分のなかには認めようとしません。自分だけは清く正しいという幻想のなかに身を置いているからです。そうして自らを潔癖であり無罪であるとするとき、他者に対しては道徳的な完全性を求めて強く批判するのです。

自分だけは清く正しいという幻想」が「他者に対しては道徳的な完全性を求めて強く批判する」ことに繋がるのは、根が「恨」だからでしょう。自分だけが正しく他者の道徳的な完全を批判するという独善が「文化」だとすれば、困った話です。整理してみると、

・恨嘆文化とは「恨み」を「嘆く」という韓国人特有の心性(心の回路)であり、李朝時代に伝統芸能「身世打令」、パンソリとしてとして定着した。
・「身世打令」は、巫女=女性シャーマンが祭儀の際に演じる巫歌・祈禱歌にその源流がある。
・「恨」には自分だけは正しいという幻想と、正しくない他者に対する道徳的批判が含まれる。
・「恨」解けていくことを喜びとする特有の文化がある。

ということになると思います。恨み嘆くというのは何時の時代でもどの世界でも庶民の共通のものであるり、宗教発生の温床でもあると思います。「身世打令」が李朝時代に興ったことは、李朝はそれだけ庶民の恨み買っていたということなのでしょう。天主(ハヌニム、朝鮮古代からのシャーマニズムに由来する概念)を中心に据え、人間の尊厳と平等を説いて甲午農民戦争を起こした東学にそれを見ることができそうです。

キリスト教
韓国人とユダヤ人には、苦難の歴史を歩んできたという歴史的な共通性がある。ユダヤ人がそうであるように、苦難の歴史を歩んできた我が民族も、神から選ばれた特別の民(エリート)であり、最終的な救済を約束された民である。

戦後韓国は、「日本帝国主義の支配」によって、我々は国を奪われ、国土を奪われ、富を奪われ、言葉を奪われ、文化を奪われ、過酷な弾圧下で苦難の歴史を歩まされたという、反日民族主義を国是として出発しました。そうした「苦難の歴史」、その「誇りの回復」というところで、反日民族主義とキリスト教が一致していくのです。

 「苦難の歴史」には日帝35年の支配が入るわけですが、あちらはローマ帝国支配からでも2000年の歴史があり、韓国とは年季が違うというものでがす。日帝支配35年の間に、韓国の米の生産と人口は倍増し、工業生産高は6倍に増え、学校の数は60倍に増えたわけですが、そういったこととは無関係に、国を奪われ文化が奪われたという新たな「恨嘆」と、「恨」が解けていくカタルシスを手に入れたわけです。恨のレセプターに入っていた李朝に代わって、日帝が入ったわけでしょう。

神の民ユダヤ人、神の子イエスがそうだったように、我々はどんな罪もない善なる民族なのに、私はどんな罪もない正しい人間なのに、なぜ迫害されなくてはならないのか……。こうした「共鳴する恨嘆」といったところに、キリスト教に 惹かれていく韓国人の大きな特徴があります。そこでは、嘆くことで自分を慰めるのと同じように、受難を思うことが慰めになっているのです。「自分はこれだけ善なのになぜ福が訪れないのか」と祈るのです。「自分はどんな罪もない善人なのに」という嘆き方は、クリスチャンに限ったものではなく、韓国人一般にごく普通に見られるものです。

 不幸を嘆くということは、誰であれ人間の普通の心情です。水に流したり、忘却の彼方に押しやったりしないと人は生きてゆけません。反日の根にはこの恨の文化があるというのが著者の考察です。民族とはなかなか厄介なものです。

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